映画
考えさせる作品、というのはよくあるが、「考える作品」というのは、あまりない。昨日、渋谷のユーロスペースで塚本晋也監督の『野火』を見終わったあと、帰りの道すがら、この映画の意味を考えずにはいられなかった。
自分は原作も読んでいるし、1959年の市川昆監督の『野火』も見ている。ついでに言えば、大岡昇平の「レイテ戦記」始め、様々な戦記や史料を読んでいて、一緒に鑑賞した人たちよりは多少知識があるつもりもしている。しかし、それでいて、この映画の意味を一から考えずにはいられなかった。
そこで、一晩考えて得たそれなりの答えが、「これは現実、リアルなんだ」という事だった。『プライベート・ライアン』を観た時にも感じたが、いっそ、スクリーンから臭いも漂って来る様な設備があれば、もっと効果が高かったろうに、と思う。
大岡昇平の「野火」は、戦争文学として最高峰の作品だと思う。戦争に神性を持ち込む作品は多くある訳だけど、この映画では、その辺りをバッサリ切ってしまった。塚本監督もその辺りを狙ったのだと思うが、自分が生きてる方が不思議なくらいの、食うか食われるかの状況では、神云々はもはや度外視されていたのだと思う。
この映画を見終わったあと、率直に「この映画は「大作」ではない」と感じたのだが、それは作品がお粗末という意味ではない。この映画の目線が、徹底して従軍した一人の兵隊の目線で描かれていたからだ。どの戦争にも英雄譚はあるのだが、個々の兵隊とは無縁なものである。原作では、ストーリーに神性を持たせ、主人公にそれに触れさせる事で、ドラマ仕立てにした。文学なのだから当然の事である。しかし、個々人の体験には、そんなものはない。ただただ悲惨、しかし自分だけではなかったのだ。個々人の体験は、大作ドラマではない。
その意味で、この映画は、70年前の戦争の話し、という感じでなく、現代の話しの様に感じた。これは非常に重要な事だと思うのだ。1970年代くらいまでの戦争映画や兵隊映画は、実際に戦争や軍隊に行った人が、演じ観る時代だった。それ故に、同時代人としての誤摩化しのなさや共感といったものが感じられた。後世の自分にとっては、当時の人の生の声を感じる事が出来る。ところが、戦中世代がどんどん死に絶えて行ってからは、そうした映画も段々と英雄性を持ち始め、今や神話にさえ化している。そうした作品によって培われた戦争観を打ち砕く意味が、この映画にはあるんじゃなかろうかと思う。
この映画は、考える映画である。この映画に何を見出すか、そこから何を感じ、考えるか、各人、思いを馳せるべきである。
前々から気になっていた「マシニスト」が、昨日たまたま深夜放送でやっていた。職場の同僚の結婚式の仕切りで、どういう訳かエラく疲れてしまって、帰って早々に寝たまでは良かったが、中途半端な時間に目が覚めてしまい、そのお陰で見る事が出来た。
この映画の主演をやったクリスチャン・ベールは、この役の為に1日ツナ缶1個とリンゴ1個の生活をやったそうで、かつこの映画の後に「バットマン・ビギンズ」の為に、約半年で86kgまで戻したという。そんなエピソードがあったので、前から気になっていたのだが、こういう激やせ激太りというのは、もちろん身体に良かろう訳がない。自分もこの4月に、サバ缶1個くらいしか食えない日があったのだが、あれは精神的に参ってたから出来た事であって、結果、5月辺りの自分の写真は痩せたというより、やつれた感じに写っていたりするのだ。
さて、この映画の様に、1年眠れない(言い換えれば、寝ずに生きていける)状態とか、ツナ缶1個にリンゴ1個の生活をやれば、この主人公の様な身体になる事は不可能じゃないと思う。前の戦争で、餓死した兵隊と同じ様なものである。ただし、クリスチャン・ベールは痩せるだけでなく、演じなければならない訳だから、それだけのスタミナ、身体は残していたに違いない、と考えていた。この映画を見て、ある程度納得できたのは、脂肪やアウターマッスルはげっそり落ちているのであるが、インナーマッスルはしっかり残っている様に見えた。だからこそ、その後に短期間のトレーニングでマッチョになれたのだと思う。
自分が今取り組んでる運動も、実は胆の部分はこのインナーマッスルを鍛える事である。特に腹は放っておけば弛む部位である。でも闇雲に腹筋運動やっても、弛みは取れない。そこでインナーマッスルを鍛えるトレーニングが必要となった訳だ。有り難い事に、その成果というか効果は出始めている様である。
昔から「徹夜したら痩せる」とはよく言われているが、残念な事に自分は眠いとどこでも居眠りしてしまう癖があるので、こればっかりは自分の体験として体感した事がない。
昨日、いつもメシ食わせて貰ってる地区労の人達と一緒に、『硫黄島からの手紙』を見てきた。労働組合の人たちの大半は、3度のメシより憲法9条が好きな人が多いので(憲法9条より好きなのは、酒と飲み会であろう)、あえてそんな人たちに、イスラム教徒に豚肉食わせるが如く、乾パンとかレーションとかを食わせてきた訳であるが、硫黄島二部作の一発目『父親たちの星条旗』が予想以上に良かったので、平和を愛好する皆さんに、是非ともこの映画をお見せしたかった訳だ。映画の中身については、これから色んな人が色んなところで評価するであろうから、敢えて自分は評価は述べない。一つだけいうなら、この映画は改憲派にとっては痛い一撃になると思うし、またこんな映画をアメリカ人が作ったというところに、海の向こうでは何かが変わりつつある事を予感する。
とまぁ、そんなくそ真面目な事をココで書いても面白くないので、純粋にミリオタ的視点で感じた事を書いてみよう。まず、栗林中将が渡辺謙というのは男前過ぎ、逆にバロン西が伊原剛志というのはブサイク。主人公の西郷一等兵は、子持ちで上等兵にもタメ口きける古年次兵なのに、どうみてもガキにしか見えない二宮和也がやってるのはミスキャスト。加瀬亮扮する清水上等兵は、憲兵から歩兵に転科した時に、拳銃は返納している筈だから、戦地まで拳銃を持ってきているのはおかしい。バロン西が登場するシーンで、いきなり乗馬で出てくるが、果たしてタダでさえ漁船とかで物資輸送をせないかんかったのに、馬なんぞ連れてくる余裕があったのであろうか(今まで読んだ本の中で、そんな記述がなかったので、ちょっと疑問)。
続いてさらにバロン西ネタだが、米軍上陸のシーンで、西中佐が戦車から砲撃指揮を執っているが、戦車はほとんどが分解されるか地中に埋めらるかして、トーチカとして使われた(つまり、剥き出しになってない)。
擂鉢山陥落のシーンで、兵隊が次々に玉砕していく訳だが、手榴弾の爆発が早過ぎ。普通、5〜6秒の遅延雷管が付いている。時間の関係で爆発するまで悠長に待ってられなかったのは判るが、リアリティに欠ける上に、切迫感や破滅感が足りないと思う。
やはりバロン西ネタなんだが、西中佐の洞窟の前にあった噴進砲は、どうみても九八式臼砲っぽいデザインだが、硫黄島に来ていた噴進砲は、四式の20センチ噴進砲と40センチ噴進砲で、どっちもデザインが全然違う。恐らく間違った資料を見たのだろう。また、噴進砲が活躍したのは、米軍上陸の第一夜だった。(でも、噴進砲を出したという事にちょっと感激)
まぁ、こうした疑問点なりミスなりがあったからと言って、この映画の価値が下がる訳ではない。むしろ、日軍マニアにとっては失禁もの、護憲派にとっては「だからこそ憲法を守ろう!」と言える、右からも左からも、それそれの観点で受け入れる事の出来る映画なんではなかろうか。
昨日、錦糸町の楽天地で、マイケル・ムーアの『華氏911』を見てきた。予告編とかCMのイメージから、どんなジョージ・ブッシュのコケの仕方をしてるのか、と楽しみにしてたら、なんとクソ真面目なドキュメンタリーでガックリ来た。正直言ってつまらない。ああいう映画がなんかの賞を取るのだから、アメリカという国もおめでたい国である。
ぶっちゃけた話しをすれば、3年前の同時多発テロから今のイラク戦争に至る「裏の経緯」は、だいたいみんなが予想してる。だから、『華氏911』で露わにされた内容は、近所の銭湯とか飲み屋に行けば、くたびれたオッサン連中が知ったかぶりで小高に話ししてる。それを、すでに報道されたニュースやインタビューを使って証明したのが前半の内容。後半は、というと、イラク戦争に従軍した兵隊や、そこで死んだ兵隊の遺族の声をインタビューしたり、ドキュメントしてる。要するに、戦争はイヤだ、なんで死んだの、といった声なのだが、そんなもんはNHKの特集番組なんかで良くやってるので、我々の目には別に目新しいもんじゃない。しかし、恐らくはアメリカ人にとっては衝撃的なドキュメントなんだろう。CNNとかが絶対に取り上げない声なんだろうな。
率直な感想としては、「あんたら、今さら何言ってるの?」と言った感じだった。政治家が私利私欲で戦争始めるのは始まった事じゃない。戦争に行きゃ、死んだり手足が吹っ飛んだり、女子供を殺したり、そういうのは当たり前だ。だから戦争はいかんとも思う訳だ。自衛の為の戦争まで放棄してしまった日本の国民は、それは自衛の為の戦争でも、悲惨な目に遭うのは自分らだという事がよく分かったからだ。アメちゃんはそこら辺がまだよく判ってない。だから『華氏911』は衝撃的なんだろう。
ただ、マイケル・ムーアって人はエライな、と思ったのは、ジョージ・ブッシュほどコケにしやすい大統領はいないのに、コケにする事で侮らなかった事だ。それと戦争には反対しているが、それに従事する(しなければならない)人々に深い敬意と愛情をもっている事だ。そういった意味では、賞に十分値する人物である。
今年最後の日曜日、錦糸町の楽天地で、「ジャンヌ・ダルク」を見てきた。何故にこの時期に、中世の戦国物を映画化したのか、今ひとつ理由が判らないのだが、ヨーロッパの騎士物は結構好きなので、一応押さえておく事にしたのだ。
映画そのものについては、取り立てて感想はない。まぁ、グロテスクなシーンでもそれなりに見せれる世相になったので、昔の映画よりは良くも悪くもリアルになった、と言うに止めておく。あと、どうせなら、もっと大きな映画館で見たかったものだ。楽天地7階のシネマ7は、単館上映専門のミニシアターみたいな所で、初めて来た人は一様に「ちっちぇ〜」と感想を漏らしていた。あんな時代劇(というとちょんまげやチャンバラをイメージするが、「エクスカリバー」や「ブレイブ・ハート」などは、ヨーロッパの時代劇である)に、並んで見なければならなかったほど、客が多いのにも驚かされた。
土曜日。明け番の眠たい目を擦りこすり、池袋まで「シン・レッド・ライン」を見に行った。去年の「プライベート・ライアン」に引き続き、二本目の第二次大戦モノである。今度は日本軍相手という事で、仮想軍人タニー隊長はライアンの時よりも期待して見に行った。前評判では、敵役の日本兵はモノホンの日本人を使ったとか、その日本兵は結構強力に描かれているとか、とにかく期待させる内容だった。角川から出ている原作を読んだ(何を間違えたのか、下巻を先に買ってしまい、途方に暮れた)時は、何とも気まずい雰囲気で、さすが終戦間もない頃の、偏見に満ち溢れた内容だわい、と思っていた。だから、映画には大いに期待したのである。
さて、ダラダラと映画評をする能も文章力もないので、直裁に結論を言う。はっきり言って、仮想軍人の視点からは、納得のイカン映画であった。我々の祖父達がガ島の、いつ、如何なる地点で、あの様な稚拙で無様な戦闘をしたのか。ライアンの時は、勝ちを進めた米軍も、負け込んだ独軍も、いずれの戦闘も大いに納得できる内容、つまり上手な戦闘をしていた。しかし、シン・レッド・ラインの戦闘は、納得できん。特に丘のトーチカを米兵が攻略するシーンは、どうにかならんのか。幾ら米兵が半自動火器を装備してるとは言え、一体いつ装弾したのか判らん様な戦闘は可笑しい。突入してくる日本兵を次々やっつけていたが、あの距離である。一組やっつけている間に反対側から突っ込まれていても不思議はないと思う。このトーチカの攻撃では、逃げ遅れた日本兵が何人か俘虜になったが、ガ島の頃の日本兵は動ける限り戦い、どうにもならなくなると自爆して自決する例の方が多かったという。あのトーチカの兵は、まだ全然元気であった。俘虜になってしまうのは少し違和感がある。
もっと納得いかんのが、この後で日本軍の中隊の部落を攻撃するシーンで、両軍が激烈な白兵戦を展開するが、もう少し均等なシーン割りをしてもらいたかった。戦闘が始まる少し前の、両軍が着剣して身構えるシーンでは、日本兵の気魄はスクリーンを通して戦慄すべき戦意を溢れさせていた。それだけに余りにも米兵の活躍が目立つ白兵戦で、白けてしまった。所詮、アメリカ映画である。ちなみに、ガ島の戦闘で、米軍があの様な積極的な戦闘を実際に行ったのであろうか。米軍が白兵戦を自ら行うというのは、よくよくの事である。
これ以外では、良く出来た映画だったと思う。特に、日本軍の兵器装備は実に良く再現されていた。九二式重機や九六式軽機もよく作動していたし、中隊の陣地には九七式曲射砲や九四式山砲?もあって、実に感動した。良く作ったものである。ラスト付近の日本軍の増援部隊が米兵を追いつめるシーンでは、九二式重機を膂力搬送していて、大いに感心した。そんな訳で、「プラトーン」に対する「ハンバーガー・ヒル」ほどの悪評ではないものの、もう少し頑張って欲しかった、と思う訳である。