帰省
実家に帰り着いて感じたのは、その狭さだった。家だけでなく、路地も狭いのである。今まではそんな風に感じた事無かったのだが、息苦しさを感じるくらいである。そりゃまぁ、今住んでる家は広々としてて、街も道幅が広く伸び伸びしている。そこに住んでかれこれ一年、そのスケールに完全になれてしまったのであろうか。実家はとても窮屈である。贅沢になれたら、なかなか生活の質を落とせないと言われるが、同感に感じた。
今回は、嫁さんが京都の国立博物館に行きたいというので連れて行ったのだが、どうやらガッカリした様である。もっとおもしろ可笑しいものがあると期待してたらしいのだが、皿だの経文だの仏像だの、そんなのが地味に展示してあるだけである。実のところ、京都の博物館はそれほど面白いものではなかった。まぁ、これは今に始まった事ではなくて、自分が子供の頃からそうだったのだが。京都は、その街自体が博物館の様なものであるから、あの程度の建物では展示しきれないのだ。
博物館の向かいにある三十三間堂は、実は今回初めて拝観したのだが、とにかく外人がいっぱい。外人が、仏教芸術を見て何を感じるのか分からないが、とにかくいっぱい居た。そのあと、四条河原町まで移動したが、やはり外人がいっぱいである。歩道の道幅を相当広くしたのか、歩き易くなっていたが、その分車道が狭くなって、前から酷かった渋滞がさらに酷い様である。
今日は、飯盒由来の地、大阪砲兵工廠跡に社会見学。
しかし、見るべきものは、正門跡と衛兵詰所跡、化学試験場跡だけで、いずれも廃墟で中には入れない。本工場跡は大阪城ホールが建ってるので面影もない。あっと言う間に見る物が無くなった。
仕方ないので、入場料600円払って大阪城天守閣に登った。しかし、今の大阪城本丸は、昭和6年に大阪市民の献金によって再建されたものであって、それまでは本丸なしの城だったとか。つまり、徳川慶喜公は、鳥羽伏見の戦いから撤退する時も、明治になって大阪砲兵工廠で飯盒貰った時も、自分が見下ろしたのとは違う位置、高さから大阪城下を見下ろしてた、と言う事だ。実はこれ、今回行くまで知らなんだ。
本丸側の第四師団司令部も、本丸再建の折に建築された由。しかし、大阪城ともども戦災を免れた。と言うのも、砲兵工廠の方は、8月14日、つまり終戦の前の日に空襲食らって壊滅したのだけど、側の大阪城は爆撃食らわなかったから。まー、米軍も明日辺りに戦争終わるの分かってたろうに、底意地悪く、戦略的に価値のある工廠だけ空爆して、価値のない大阪城は無視した訳だ。
しかし、大阪市民にしてみたら、工廠なんかより大阪城の方がなんぼ価値があったろうか。忘れ去られ、朽ちるに任されてる化学試験場と対照的に賑わう大阪城の姿に、大阪市民の心意気とリアリズムを見た気がした。
自慢になるかも知れないが、たにし母は料理は上手い方だと思う。出来合いでこのレベルだから、本気出せばかなりのモンを作る。
しかし、ふと今気が付いたのだが、米の飯はかなり少ない。だから、昔は結構お代わりしてた。自分は昔から米の飯が好きなので、オカズの量に見合う飯を食わなければ気が済まんかったのだ。今でこそ、そんなには食えなくて、むしろこんだけオカズあるなら、この量くらいのご飯など、オマケみたいなもんで、食わなくてもいい様なもんだが、やはりご飯好きなんで食べてしまう。そりゃ、太る訳だ。
しかし、見方を変えるならば、こういったオカズとご飯の比率であれば、炭水化物ダイエットもやり易かろうと思う。オカズだけで腹いっぱいになってしまうからだ。実を言うと、このご飯、まとめて炊いて冷蔵しといて、食べる前に電子レンジで温めたもの。毎日飯盒で飯炊いた口には、いささか美味くない。だから、よほど残そうかと思ったくらいだ。
自分がまだ実家にいた頃は、炊飯器とは言え、炊き立ての飯が出たのだが、今は親父とオカンの二人だけで、あまり飯を食わんのだろう。だから、少量を毎回炊くのが面倒で、まとめて炊いてるんだとは思う。しかし、「米の飯は嵩増し」的な思想が垣間見れない事もない。
飯盒で炊いた飯は美味くて、味噌だけで十分食えるって話しをしたら、オカンから「ちゃんとオカズ食え」って言われた。本人は、コロッケかじりながら、スーパーの安売りのいなり寿司食うてたんだが。
それ見て、全然説得力ないやんけ!とツッコミ入れたら、「説得する気ないwww」とのたまわれた。確かに、自分の体に流れてる血の半分はこいつから来た、と実感したwww
たにし母は、ご飯なんか食えたら何でもええらしく、飯の美味い不味いなんか気にならんらしい。まさか我が母がこの手合いであるとは知らなんだが、こういった 思想の人に美味く炊けた飯の魅力を語っても、理解しないどころか、聞く耳持たんのは、共通する反応だという事が分かった(;´Д`A
- 今日:
- 昨日:
- 累計: