たにしのつぼ焼き

あれもしたい、これもしたい、もっとしたい、もっともっとしたい〜♪

感想文

成田空港 空と大地の歴史館

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 昨日、やっとこ晴れたので成田空港の側にある航空科学博物館に行ってきた。航空機の歴史とか、航空機が飛ぶ原理とか、ジャンボジェット機のエンジンやらタイヤやらの展示とか、それなりに見応えがあったが、普通の博物館といった感じ。それほどの感銘や興味は受けなかった。
 それよりも、空と大地の歴史館の方にこそ興味があった。ここは1966年から今も続く成田闘争をテーマとした資料館である。航空博物館に比べたら小さな施設ではあるのだが、開館から10年余と新しく綺麗で、それでいて豊富な史料が詰まった見応え満点の資料館だった。展示台が単管で組まれている様など、実に雰囲気満点である。
 特筆すべきは、余計なバイアスがあまりかかっていないという点だ。反対運動側を頭のイカれた過激派とも、公団側を血も涙も無い極悪非道とも、描き出してない。どちらの側にも言い分があって、むしろ反対運動側には起たずにはおれない、闘わずにはおれない事情があったというのが、明確堂々と示されている。展示されている数々の品は、当時の闘争に用いられた物であり、まるでその時の闘争の場に引き込まれる思いがした。
 こうした(第三者的に見て)中立的な資料館が作れたのは、当時の敵味方がまだ存命で、かつ相互にある程度の和解と理解が進んでいて、お互いにあの時代を見直す機運があったからだろう。史料というのは、それを紐解く人の時代精神のバイアスをどうしても受けてしまうものだが、その意味でバイアスが掛からない条件があった、稀有な資料館である。
 歴史的にみて、戦後日本のこの手の社会運動は敗北したとみられている。やっても無駄、しょーもない事してた、とバカにした見方もある。しかし、そうした数々の闘争が、資本家や政府をしてパイの切り身を大きくせざるを得ず、ゴルバチョフをして「日本は世界で一番成功した社会主義国である」と言わしめる社会主義的平等を実現させた。一億総中流はそうした流れから生まれた。今の日本人に、ゲバ棒振り回して火炎瓶投げる勇気や熱意や闘志があるかどうか。失われた30年とか言ってないで、自省してみる必要があるだろう。

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航空科学博物館で買ったフリーズドライのバニラアイス
知ってる人は分かると思うが、バニラ風味の落雁であるw









特別展「大英博物館ミイラ展 古代エジプト6つの物語」

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 博物館を見学するのは好きな方であるが、初めて行く所でなければそうそうは行こうとはしない。上野の科学博物館は18歳で上京して以来、二、三度は行っているが、最初の1回目以降は、特別展のついでに常設展も見ると行った感じだ。
 しかし、新小岩に住んでた頃に比べると、四街道から上野に行くのはちと面倒である。しかも嫁はん連れてとなるとなおさらで、トランポで最寄りの駅まで行ってコインパーキングに停めて、電車でほぼ通勤するときと同じ時間乗り継いで行かねばならない。さらには、普段ゴロゴロして歩き慣れてない嫁はんは、ちょっと歩かせただけですぐ足が痛いと文句を言う。文句言う割には、博物館に行きたがるのは嫁はんなのだ。
 さて、今回はタイトルの特別展に見に行った訳だが、この展示の目玉は、CTスキャンを活用する事でミイラを破壊する事なく内部を精査できた、という事なのであるが、ぶっちゃけた感想を言うと、ミイラ本体を見れた訳ではないので、今ひとつ物足りなかった。昔はミイラの解体ショーとかあって、それで貴重な史料の多くが破壊された事の反省から、今は取り扱いが厳重になっているし、CTでスキャンする事でそうした破壊をせずに調べられる、というのが大事になっているのだと思うし、それゆえの特別展だったと思うのだが、解体ショー時代の好事な興味というのも、また率直な感情なんだな、と感じた。
 しかし、自分が度肝を抜かれたのは、むしろ常設展の方だった。一体いつから変わったのか知らないが、随分立派になっている。南米の生首のミイラとか展示してあった時代とは大違いで、地球館1階の360度モニターで流されていた「地球史ナビゲーター」のアニメーションが素晴らしく、足痛くてどっかでへたりこんでた嫁はん放ったらかして、3回も見直してしまった。



 その他の展示も重厚で、伏せたティラノサウルスの化石は斬新だった。ゆっくり見て回りたいところだったが、自分も大概足腰が疲れてたのと、ゆっくり見て回りには物量が多くて、一気には見れないところは、佐倉の歴史民俗博物館と共通してると感じた。自分が子供の頃に比べると、今の子は極めて質の高い史料を見る事が出来ていると思う。









いじめ作品としての『Another』

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 U-NEXTで久々に『Another』を見た。2012年に深夜帯でやってた綾辻行人の作品である。本放送を見てたのであるが、小説の方は読んでない。なのでアニメ作品としての『Another』しか知らない。まぁ、原作者には申し訳ないが、絵柄で見てたようなもんである。
 さて、9年ぶりに見てみたのだが、ぶっちゃけた話し、「これって、いじめじゃね?」と感じた。不可思議な死亡事故を防ぐために、クラスの一人を「いないもの」として一年無視し通すというのは、これはいじめ以外の何者でもないだろう。しかもクラスの担任まで加担しているのであるから、これは大問題である。まぁ、不可思議な事故で生徒が次々死ぬ方がもっと大問題であるが、そっちは事故や病気や怪我が原因なので、ある意味、不可抗力である。文字通り「事故」である。しかし、クラスの一人を選んで無視するというのは、人為的であるから、非常に悪質である。しかも、机までボロボロのを充てがうというのは、尋常ならざるものがある。
 9年前に見てた時は、意外にもそうした事には気がつかなかった。「いないもの」にされたヒロインが飄々とした人物で、そういう扱いを物ともしてなかったから、そういう風に感じられなかったのかもしれない。しかし、あれが、メガネの三つ編みの子が「いないもの」だったら、全然違った風に見えただろう。実際、作中でも、過去に「いないもの」扱いに耐え切れなくなった生徒もいたらしい(で、結果、不可思議な事故で生徒が死にまくったらしい)。
 まぁ、作中の設定なので、「いないもの」といったやり方をしてる事自体は批判しないが、自分がむしろ注目したのは、やっぱりヒロイン・見崎鳴の、あの飄々とした、強靭な(見方を変えれば無感覚な)態度、性格だろう。一体どういう経緯で「いないもの」にされたのか分からないが、そういう境遇にあってもあの態度であるから、仮にいじめだとしても、いじめてる方は面白くない。いじめに対する答えの一つを見た気がした。
 自分が子供の頃は、「アホの相手する方がアホやねん」と言われて、バカにする奴がいてもまともに相手にするな、と親から言われたもんである。実際には、木の股から生まれた訳ではないので、頭にも来れば嫌にもなるのであるが、それに耐えうる強靭な性格、もしくはそれを苦痛に感じない鈍感さ、それこそが、世の中生きていく上で、どこかしら必要である。
 作品の本質とは全然関係ない事であるが、そういった点で、ちょっと面白く見直した作品だった。









『パーフェクト・センス』

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 アマプラなどのタダ期間で、せっかくタダで見れるんだからと、暇つぶしかねがね観たんだが、久々にぐっさり心に刺さった。
 もともと、終末ものが好きなのであるが、最近は感染症が原因の作品が多い。これもその一つなんだが、病理的科学的な説明とか要素とかは、あえてオミットしているだと思う。エヴァ・グリーン演ずる科学者は、主人公の一人なんだけど、映画の中ではそっちの分野では全然活躍してない。それどころか、嗅覚、味覚が失われて、今度は聴覚が失われる際には、同僚の科学者が「もう慌てるしかないか」という。未曾有の危機に対して、もはや科学は無力であることを示しているんだと思う。これほどまでに、人間が築き上げた「文明」が無力に描かれたパニック映画もないんじゃなかろうか。
 それに対して、もう一人の主人公であるユアン・マクレガー演ずるコック(の勤める店)の方は、音だの食感だの色目だの、感じれる感覚で楽しめる料理を考案したり、スピーカーの振動で音楽を楽しもうとしたりと、「文化」の方は懸命に人間らしさを保とうと奮闘している姿を描いている。この辺りの対比は、とても印象的だった。
 嗅覚が失われる時は非常な哀しみ、味覚がなくなる時は異常な食欲、聴覚がなくなる時には激烈な怒り、そして視覚が失われる時にはとてつもない幸福感、という前触れの設定も面白いなと思った。喜怒哀楽といったところなんだろうか。最後に残った触覚がなくなる時は、もう何も感じないまま、何もかもが失われてしまうのだろう。目も見えなければ、もう実質的にはどうも出来ないのも同然で、最終的には飢えて死ぬしかない。
 この映画、触覚を失うところまでは描かれておらず、主人公二人が抱き合ったところで終わるのだが、ふと、もし自分が今でも独身であの賃貸マンションに一人で住んでいて、こんな事が起こったら、どうするんだろうな、と思った。どうする事も出来ないと思うんだが、やっぱり一人は寂しいんだろうな、と思う。目が見えてようが、音が聞こえ様が、やっぱり一人は寂しいもんだ。この映画が描きたかったのは、そういう事じゃないかな。









予科練平和記念館

 嫁はんが父方のお祖父さんの軍歴証明を取った。一体なんの興味があって取ったのか分からんが、分からんなりに取りっぱなしの感じなので、自分が解説した。まず、兵歴簿にはこう書いてある。

月日 所轄 記事
昭和19 9.15 三重航空隊 入隊海軍二等飛行兵ヲ名ズ 第15甲種飛行豫科練習生
昭和19 10.15   海軍一等飛行兵ヲ名ズ
昭和19 12.15   海軍上等飛行兵ヲ命ズ
昭和20 3.15   海軍飛行兵長ヲ命ズ
       
    第九○三航空隊  
昭和20 9.1   任海軍二等飛行兵曹
昭和20 9.1   豫備役編入 現役満期

 嫁はんのお祖父さんは、軍隊時代の事をよく話ししてたらしく、昭和19年9月に予科練に志願して入隊し、行った先は三重だったとの事。この辺りは記録通りである。問題はこの後で、お祖父さんの話しによると、静岡の清水の航空隊に行って、最後は青森のどっかで終戦を迎えたらしい。しかし、そうした事は兵歴簿には書かれていない。ただし、清水には予科練の航空隊があり、第九◯三航空隊は東日本の索敵哨戒を担任する部隊で、大湊の方にも派遣隊があったので、三重から清水に移動して、大湊の方で勤務してた可能性がある。ちなみに、お祖父さんは手相で偵察員に回されたそうである。昭和20年9月1日(日本降伏の前日)に、ポツダム進級して兵曹になって即日予備役編入、家に帰されている。

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雄翔館

 さて、こんな事もあってか、嫁はんはら霞ヶ浦の予科練平和記念館に行きたい行きたいと小学3年生みたいにせがまれたので、行ってきた。ウチから1時間半くらいの所にあるのである。
 この種の記念館を見ていつも思うのは、「光と陰」の「光」の部分にしか焦点は合わされてないなぁ、という事だ。前に舞鶴の引揚記念館に行った時も感じたが、見せたくないのか見たくないのか分からないが、ちょっと勉強すれば分かる陰の部分が、全然描かれていない。陰だらけのシベリア抑留でさえそうなのだから、予科練などはもっとであろう。いろいろ罰直があってご苦労されたに違いないのに、そうした部分は、ひとっつもなかった。
 その一方で、予科練習生が受けた試験や学科の内容をみて、レベルの高いのをやってたんだなぁ、と感心した。自分だって中学高校で数学の授業を受けていたが、当時の自分の頭のレベルで解けたかどうか、怪しいもんである。まぁ、飛行機にせよ航空術にせよ、学問の塊りであるから、知的レベルが高くなければ務まらないという訳だ。戦争で死んだ人も多いのであるが、生きて帰ってきた人たちが、戦後の日本を引っ張って行ったというのは、ある意味、うなづける話しである。ちなみに、嫁はんのお祖父さんは戦後、小学校の先生になって教頭まで勤めたとの事である。
 記念館の隣の、陸自の敷地内にある雄翔館も見てきたが、こっちの方はまだしもバイアスのかかり具合が少なくて、史料的価値が高いかな、と感じた。

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雄翔館のフェンスの向こうには、陸自の装甲車両がずらり








『ハイポジ』

 46歳の家族も仕事も失うおっさんが、16歳の自分に転生する、、というお話し。昨晩、一気読みして、面白いというより、むしろ懐かしいと感じた。タイトルのハイポジというのは、カセットテープのことで、ノーマルのテープよりも音質の良い上等なテープで、もちろん高かった。1986年当時、CDラジカセがあったのか、自分の記憶では定かでない、というか誰も持ってなかった。カセットテープにしてもCDにしても、もう遠い過去の異物になろうとしている。
 1986年当時、自分は17歳。3月生まれの早行きなので、その年の3月に高校を卒業している。この作品の主人公のおっさんとは、ほぼ同世代である。だから、時代的なものに対するシンパシーは持てたが、高校時代の生き様というか暮らしぶりというか、その部分はまったく違ってて、「そんな奴、おったんかなー」という感じだった。
 この作品、恋愛ジャンルであるが、まず自分が中高生時代に、あんな風な恋愛しとった奴が居なかった。自分の立ち位置が、『赤灯えれじい』のサトシに近いものがあったので、自分にそういう話しがなかったのはもちろんのこと、周りでもそんな話しを聞いた事がない。隠れて付き合ってた奴がいたかもしれんが、そういうのは大抵、なんらかの風の頼りで伝わってくるものだが、自分が知る限り、そんなのはこれっぽちもなかった。「不純異性交遊」というのは不良がするもので、不純であろうが純であろうが、色恋沙汰というのは、大抵は高校卒業してからの話し、という感じだった。
 家族的な面で言えば、ウチの親は厳しくて、バイトやったり朝帰りなどやろうものなら、どんな目に遭わされてたか分からない。一度、新聞配達のバイトやろうとして(当時、ウチの地元ではその程度しかバイトがなかった)、オカンから「何考えとんじゃ!学生の本分は何や、言うてみぃ!」と怒鳴りつけられて、当然禁止。言うなれば経済封鎖を受けてた様なものなので、ハイポジを買うのは並々ならぬ、という感じだったのだ。
 恋愛に関して言えば、自分はどっちかと言えば、30歳まで「中年童貞」の流れであったけど、ある時、おそらく神の啓示を受けたのだろう、一念発起して自分を変える事にした。以来、18年間、営々と色んな事があったのだが、そこで思うのは、「この手のチャレンジは、早ければ早いほど有利だし猶予があるなぁ」という事だった。まぁ、人生なんてのは、過去に思いを馳せても、意味のないものである。自分がどう生きたか、それだけが意味を持つ。「あの時、こうしとけばなー」と思う話しは良くあるが、環境や条件やその時の自分の意気地や、様々な要素で「そう出来なかった」だけの事である。
 むしろ、そんな風に思ったりするのは、一所懸命頑張ってなかった時の事だったりするのかもしれない。その意味で、自分があまり過去に戻りたいと思わないのは、頑張ってなかった時は不如意であるからわざわざ戻りたいとは思わないし、頑張ってた時はその事自体で満足であるからやり直す必要を感じない、という事なんだろうと思う。





[コロナ自粛] カレーベント

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 コロナで自粛して様がコロナ関係なかろうが、外食というのは「気分」でやってしまうものなので、うっかりすると外食費がびっくりするほど増えてたりする。なので出来る限り外食は控える様に心がけて、3月は成功したのであるが、その後のコロナ自粛である。する事がないと口さみしくなるのか、先月は増えてしまった。結局、活動自粛しても収支はトントンである。
 とはいえ、工事の人が来るからと、昨日6時間、家の掃除やってた嫁さんに、何にも給与しないというのでは具合が悪い。何が食いたいか聞いたところ、佐倉のベイシアの向かいにあるインド料理屋に行きたいという。何かというとインド料理屋に入りたがるのだが、まぁ、褒賞であるからにはダメともイヤとも言えないので、出向く事にした。
 この近所の外食店は、軒並み自粛で、テイクアウトのみになっている所が多い。この店もそうで、注文してから外で待って、受け取って帰る。何が食いたいか、嫁さんに注文させたら、結構良い値段になってびっくりしたのだが、ナンをチーズナンにして貰うだけで良かったのに、別個にチーズナンも入ってたりして、それで値が嵩んだのだ。駐車場にデカデカと出てた看板の「カレーベント」なら780円である。
 お味は、まぁ、お持ち帰りなので、温かいものは少々冷め、冷たいものは少々温まり、という具合で、店で出来たてのを食べる事を考えたら、ちょっと値引きな感じであるが、まぁ普通に美味しい。この手の店は、カレーの辛さはオーダー出来るところが多いが、お持ち帰りでは並な日本人の大抵が食べれる辛さにしてあるようだった。緊急事態宣言が解除されたら、今度は店で食べたいものである。
 嫁さん曰く、ラッシーが猛烈に甘い、という事だったが、おそらく辛いのを食った時対応の甘さなのと、少々温くなってたからかもしれない。冷たいものは甘みが低く感じられるので、結構甘みを強くしてある事が多い。そもそも、この店に行きたいと言い出したのは、学校給食がなくなって牛乳が余ってるのか、ラッシーの作り方がツイッターに流れてて、それを見て嫁さんがラッシーを作ったのだが、生臭くて嫌だと言ったところ、インド料理屋のと飲み比べてみろ、という流れがあったのである。自分はインド料理屋のラッシーの方が好きである。

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『復活の日』

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 あえてこの本の感想を書かなかったのは、この本は風邪をひいて寝込んだ時、必ずと行って良いほど読む本で、それこそ何回も読んだし、これからも読むであろうから、敢えて感想を述べる必要も感じなかったからである。実のところ、この本を読んでたお陰で、昨今のコロナ騒ぎは、何となくその流れが見えてたし、この本の中で描かれたほどの「災厄の事態」にはならぬであろうから、そこまで大騒ぎせんでも、という気持ちにもなっている。
 どうして風邪をひいた時にこの本を読むのかというと、この本の中で人々は、表面的にはインフルエンザで苦しんで死んでいくので、少しでも自分もその苦しさを味わってるその時に読む事で、その物語を仮想的に実感するためである。しんどくない時に読んでも、それなりにゾクっとする内容の本であるが、風邪ひいてしんどい時に読んだ方が、MM-88に罹患してるっぽい雰囲気が味わえるのだ。
 それはさておき、この本の中では、ウィルス学の初歩も学べるし、崩壊していく社会の様相も見れる。むしろ、後者の方こそがこの本の魅力である。映画も作られたが、しょーもないメロドラマが入って、肝心の部分がおざなりになっている。この本が「予言の書」と言われるのは、疫病によって犯される社会がどの様になるかを、如実に描き出しているところにあるのだ。
 目下のコロナ禍で、もっとも大変な状況になっているのは、医療現場である。医療崩壊のシーンは、『復活の日』にも描かれている。ついで報道の有様、これも描かれている。しかも、本の中身の通りである。スポーツやイベントの中止は、さすがに人がバタバタ倒れている訳ではないので、状況が違う。経済が大打撃を受けるシーンは、この本にも少々書かれているが、大打撃を受ける前に人類が滅んでしまうので、その意味ではあまり影響がない。そして決定的に違うのは、この本に描かれているほどMM-88が宿主にしてるウィルスほど、新型コロナは感染力・毒性が高くない事と、この本に描かれている様に「人がバタバタ死んでない」という事だ。
 その意味では、我々は新型コロナで、直接目に触れる形での「恐怖」を見ていない。「恐怖」は伝え聞く話しばかりなのだ。今、自分が仮に感染してたとしても、無自覚無症状の者もいるという。熱も出てない、目の前で人が死んだりもしていなければ、道端に死体が転がってる訳でもない。『復活の日』に描かれた恐怖は、今のところ、新型コロナでは現れてないのだ。
 その意味で、過度な恐怖心や不安感は持たない方が良い、というのが自分の考えである。




『The Man In The High Castle』

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 こないだ、Amazonビデオで『高い城の男』のシーズン4が公開されたので一気見した。既に原作から大きく話しが外れているのだが、テレビシリーズはそれそのものの作品として見れば、それなりに面白い。自分は日本人なので、出来れば日本側のパートはモチっと丁寧に作って欲しかったなー、と思わないでもないが、木戸警部役の人初め、出来る限り一所懸命“日本人”をやろうとしてたのには好感を持てた。
 さて、歴史改変SFなこの作品であるけど、この作品の根底にあるのは、やっぱりアメリカ人好みの「家族」だの「愛」だのと言った事なんだな、と感じた。いや、嫌味な意味ではなくだ。特に顕著なのは、ジョン・スミス元帥の抱えた苦悩。あれは辛そうだ。北米で一番偉い地位にありながらドイツの風下でビクビクしなきゃならない立場。反発と信奉する家族。権力者であるだけに苦悩が大きいのが辛い。ラストで予想外のどんでん返しで一切合切チャラにしたと思ったのも束の間、とても残念な結果になる。
 権力者が苦悩する作品は色々あるのだけど、このテレビシリーズはそれこそがテーマだったのかもな、と感じた。これは原作では全然触れられてない部分である。つか、あの原作を、ようここまで変えたなー、と感心する。その意味で、歴史改変の部分は、もはやどっちらけになってしまっているのだが。
 感心するところも多く、またツッコミどころも多い作品だったが、改めて原作を読んでみたくなった。本棚のどっかにあったはず。



 


『東京の下層社会』

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 この本は、たまたまツイッターで早川タダノリ氏が紹介してたのを見て、興味持って取り寄せた。Amazonのとある書店から取り寄せたのだが、カバーに直接べったりタグのシールが貼られていたのをみて、怒り半分萎え半分。いくら古本だからと言って、扱いの雑さに閉口した。中が綺麗だっただけに、残念な事である。とりあえず、文句を先に書いておく。

望遠鏡と顕微鏡
 この本の冒頭に書かれていた「ノスタルジーとは、いわば望遠鏡を逆さに覗くようなものである」という言葉は、非常にグッとくるものがあった。この本は、明治から昭和初期にかけての、東京での貧困問題を扱った本であるが、この言葉は、歴史を学ぼうとする人にとって、箴言の一つだろうと思う。
 例えば、自分がツイッターでフォローしている人の中には、真剣に旧日本軍の研究・保存活動をしている人や団体がいくつかあるのであるが、その活動を高く評価しつつ、見過ごされ、忘れられようとしてるものがあるのではないか、という気持ちが無いわけでは無い。いわゆる軍隊におけるイジメ、シゴキ、嫌がらせ、「人の嫌がる軍隊に」の部分の研究や再現は、ほとんどされてない様に思う。かつて日本の軍隊経験のある人にとっては、それこそが日本の軍隊の有様であったろうと思うのだが、そうしたリエナクトプレイも見かけない。
 しかし、それは責められる事では無いのだろうな、と思う。というのも、過去のそうした事に興味を持つ第一歩は、「恰好良さ」であり、ついで「素晴らしさ」であろうから、そうしたものを追究していくのは当然の流れであり、暗部には出来れば触れたく無いのは至極自然な事である。「捧げ銃」だの「セミ」だの「自転車」だの、さらには「体前支え」だの、対抗ビンタや上靴や帯革ビンタなんかやってる団体があったとしたら、もう、ただのサドマゾ団体にしか見えないと思う。
 「おしん」という有名な朝ドラがあるが、これとても当時としては超ラッキーなスーパーガールの話しである。ドラマであるから、そういう子を主人公に据えなければドラマにならないのであろうが、現実的な視点にたてば、女工哀史を地でいった、おしんの姉のはるこそが、おしんの時代の主たる少女だったと言えると思う。

 とまぁ、分かった様な事を偉そうに書いたが、自分も偉そうな事を言えた義理では無い。では、この手の本を読んだからと言って、貧困問題に立ち向かったり、何か思いを致したりする訳でも無い。遠い時代の、あるいは遠い国の、小汚い有象無象を、興味本位で覗き見してるだけである。顕微鏡で微生物が蠢いているのを覗いている様なものだ。
 結局のところ、大した事はないのだ。精々「自分はこんな風でなくて良かった」と思うくらいである。もしかしたら、何か辛い事があったら、ふと「あれに比べたらマシ」くらいには思うかもしれない。でも、自分が「そこに居なかった」というのは、決定的に些かの共感も同情の念も生じさせないのだ。自分は小物である。







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