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 久々に新しい本を読んだ。ここ数年、買ってまで読みたいと思う本に出会えないのだが、この本も実は買った本ではなくて、ゴミ捨て場に捨ててあった本である。『言論統制 情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』物々しいタイトルから想像したのは、戦前の苛烈な文化統制の実態、ライスカレーを辛味入汁掛飯、ハンドルを走行転把とまで言い換えねばならなかった時代の様相をつぶさに書いたもの、というものだった。
 ところがその中身は、本家から里子に出されて、艱難辛苦を耐え忍びながらも勉学に励み、実力社会である筈の軍隊を目指しながら学歴に阻まれ、それ故か、誰もが平等に教育を受ける機会を社会的に作ろう、と理念した軍人の物語だった。書き手のバイアスが掛かっているのは当然としても、「言論界の独裁者」だったのはわずか3年ほど、それも真摯熱烈に職域に奉公した姿が感じられただけだった。
 この本を買った人がなぜこの本を捨てたか、読み終わったあと、何となく判る気がした。恐らく、自分がこの本を拾った時以上に、期待をしてたに違いない。当時の軍部が、どれほど理不尽かつ高圧的に言論界初め国民に命令していたかを。それはまったくのフィクションではないものの、被害者意識に彩られた歴史を教育を受けた結果なのだ、という事を、前の持ち主は認める事が出来なかったのではないか。ましてや、宮本百合子が教育という部分において、敵側の首魁であるはずの鈴木庫三と、意気投合してるなどと書かれては。
 「そして二一世紀の日本。ゆとり教育の下で「受験戦争」は過去の記憶となり、戦中から続いた平等主義の「教育国家」は、大きな曲がり角にさしかかっている。努力はダサく、知識よりも趣味が評価される現代日本で、大志とともに青少年から喧嘩の気概も失われている。鈴木少佐の悲願であった「教育国家」はこのまま終焉を迎えるのであろうか。」
 自分は共通一次世代の終わりの方なのであるが、実のところ、「知識よりも趣味」を優先した生き方を本能的に選んできた。豊かな国だったからこそ出来る選択だったと思う。一億総中流が終わった今、教育国家も終焉を迎えた、というより、一からやり直しの感がある。こういう本を読んだ時だけは、そんな事も考えたりするのである。