たにしのつぼ焼き

あれもしたい、これもしたい、もっとしたい、もっともっとしたい〜♪

雑感

我が身を振り返る



 何か大きな買い物をする時とか、自分に転機が訪れたと感じた時、この手の動画をよく見る。この度はトランポを買い換えたので、やっぱり見返した。何度目になるかな。同じものを繰り返し見てるから、大体思うことは毎度同じだ。「自分は運が良かったな」と言う事と「自分は頑張ってたな」と言う事だ。
 この種の番組は、1998年から2008年にかけて多く作られた。落ちぶれ、やさぐれ、這い上がれなくなった人たちの物語だ。自己責任と言う言葉で片付けられてた時代だった。そして、自分もこうなってても不思議はなかった時代だったのだ。この10年間、自分は何してたのかというと、
2000年3月:会社解散、無職
2000年6月:再就職、面接の条件と違うので1ヶ月で退職
2000年10月:再就職、仕事キツすぎて1ヶ月で退職
2001年2月:再就職
2002年10月:不当解雇で争議開始
2005年8月:職場復帰断念、解決金で争議解決
2007年4月:今の職場に就職
 2000年3月の会社解散で無職になったのは、実は系列会社に移れる可能性もあったのだが、それまでの自分の扱われ方に不満を感じていて、割増退職金もらって辞める事にした。しかし、今から振り返れば、それが人生の蹉跌となっても不思議ではない決断だった。その後、簡単に行くと思った再就職が今でいうところのブラック企業ばかりで短期で辞め、就職活動も虚しく失業保険もらって引きこもってしまった。それでも奮起して就職活動を再開して、やっとこまともそうな会社に入ったが、結局不当解雇されて争議になった。
 ポイントは、そのまま泣き寝入りしないで争議を起こした事だが、そうしてなかったら、自分もホームレース人生だった可能性が高い。また拾ってくれた単産が良心的で体力があったのも運が良かった。とにかく、助けてくれる人の期待を裏切らない様、オルグを頑張った。もしかしたら、人生で一番輝いていた時代だったかもしれない。
 争議が終わると、本当にただの無職になってしまった。再就職先もないし、いくつかチャレンジしたけど、ダメ。なので、争議の時にお世話になった地区労に毎日通って、用事手伝って、文字通り飯食わせて貰っていた。そうこうしているウチに、地区労のイベントの手伝いの関係で今の職場の前の前のボスを紹介してもらい、その流れで今の職場に潜り込めた。これもまた運である。
 自分は「神の奇跡」を信じる男である。自分の努力だけでは、どうにもならない事も多い。しかし、その行き詰まった時、奇跡的なチャンスに助けられる事が多かった。「運も実力のうち」と言うが、自分はそうではないと思う。運は運なのである。
 しかし、全てが運頼み、と言う訳ではない。仮に道端に金のインゴットが落ちてたとしても、外に出歩いていなければ、それを拾うことは出来ない。活動家である必要がある。押しても引いてもダメな時に無駄あがきをしても仕方ないが、それでも基本は頑張る精神が必要なのである。自分は運を拾える条件を自分で整えていたのだろうな、と思う。
 まぁ、こう考えられるのも、今の自分が恵まれているからなんだろうな。なんのかんの言っても、ここまで落ちぶれた事はない。前にも書いたが、この手の動画を見るのは、顕微鏡越しに微生物を観察する様なもんである。





ポテトサラダを捏ねる時の音は自動車でゆっくり砂利道走った時の音

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 今朝、内科の待合室で、テレビのワイドショーが例の「ポテサラ騒動」を扱っていた。作った方が美味い買った方が美味いかとか、そんなどうでも良い様な話しから、ついには「惣菜を使った手抜きに見えないレシピ」と言った、そこまで手間掛けるなら作ったれやと思う様な話しにまで展開してて、21世紀のテレビはもう無くても良いな、と感じながら見てた。
 実のところ、この話しは漏れ聞こえてくる程度にしか知らなくて、てっきりどっかのズボラ主婦が買ってきたパックのままポテトサラダを食卓に出して、ご主人に文句垂れられた話しだと思っていた。まぁ、この手の話しは自分が子供の頃には既にあった話しである。食育という言葉が生まれる遥か以前に、もっぱら忙しい共働き家庭のお母さんに対する警句としてあったのだ。惣菜買ってくるのは仕方ないとしても、せめて器に盛りましょう、と言った話しである。
 と言った事を、うちのズボラ嫁に話しししたら、実はそうでないと言う事がわかった。そこで調べてみたら、この騒動の始まりは、このツイートだったと言う訳である。


 いやいやいやいや、これはトンだお節介ではないか。見ず知らずのジジイが、他所の家の買い物にケチつける必要がない。これが関西のおばちゃんだったら「別にあんたに買うてくれ言うてへんのに、何言うとんねや、ボケとんのけ?」くらい言い返しそうである。いや、そう言い返すのが、この問題の本質である。ポテトサラダを作るのは大変とか、作っても買っても美味しければ良いとか、そう言う問題でない。自分から言わせれば、本質のずれた所で大騒ぎになってるんじゃないのか、と思う。
 自分は、忙しい主婦が惣菜買って出す事自体には、文句は一つもない。ただ、料理とか食事というのは、ちょっとした一手間によって見栄えも感じ方も変わってくる。それに対する答えが、これだ。


 これは上に書いた、いわゆる食育の問題に対する回答でもある。自分がこの騒動を自分なりに解釈して誤解してたのは、皿に盛るのも面倒臭がる嫁はんがおったりするもので、しかもその言い草が「洗い物増えるから」と、どの口がそんな事言うとんじゃー、とたにし母なら鉄拳食らわせそうな言い分で、まぁ、どこの家にもズボラな奴はおるわなー、と思っていたからなのだ。
 もしかしたら、余計な事言うたジジイの嫁も、非常なズボラで、一日ゴロゴロして食ちゃ寝してるセイウチみたいな嫁なのかしれない。そのストレスが、ポテトサラダ買おうとしてた他人に向いたのかしれない。そうであっても、余計な一言には違いないが。

 ちなみに、自分は子供の頃、よくポテトサラダを作らされた。あっつアツのジャガイモの皮剥いて、スリコギの棒で潰して、マヨネーズ入れてくちゃくちゃ捏ねてる時の音が、砂利道を車で走る時の音に似てるなぁ、と思いながら。それほどポテトサラダ好きでもなかったのに作らされる理不尽を感じつつ、不平を言えばオカンの怒声と鉄拳が飛んでくるので、渋々やってた訳だ。なので、ポテトサラダは案外作るのが大変なのをよく知っている。ついでに言えば、今でも大して好きでないので、惣菜コーナーではマカロニサラダを買う。






同情でなく感心する

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文春オンライン

 この記事を読んで正直に感じた事は、「なかなか利口な奴だ」という事だった。こんな奴がサービス業やってるのがちょっと不思議なくらいである。むしろ、自分の秘められた才能に目覚めたのか、あるいは副業レベルでやってるのが楽しいのか。どっちにしても、目鼻のきく男である。
 昔でいうなら「闇屋」というやつであろうが、社会も会社も自分を守ってくれない世の中で、自分を生かすためには何だってやらねばならないだろう。むしろそれが出来るかどうか、というのが問題である。立場が逆になった時、自分はこの男みたいに目鼻が効いた商売ができるかどうか、分からない。途方にくれたり、政府や自治体を頼ろうとするかもしれない。実際、会社を不当解雇された時は、労働組合を頼ったくらいである。
 この男に「正義感」などないのは、この記事を読めばわかる。正義感もない代わり、悪い事をしてるという感覚もない。不用品といえども職場の物を他所で売りさばくのは横領なのであるが、そんなのも御構い無しである。「経済を回してやってる」というのは、正義感などでなく、実際がそうだから、そう言ってるだけだろう。転売屋であれ闇屋であれ、需要と供給で成り立っている。転売屋を恨むなら、転売屋から買わなければ良いのであるし、転売屋を撲滅したいなら買う方も摘発すべきである。
 しかし、実際には、闇屋を非難しつつも、闇米を食わねば生きていけない、というのが品不足の世の常である。言ってみれば、転売屋に対する口撃は、単なる愚痴でしかない。
 このおっさんも、本業の方で蹴つまずいてなかったら(それも本人のせいとも思えないが)、こんな事もしてなかったかもしれない。その能力は目覚めないままか、あるいは違う方面で活用されてたかもしれない。その意味では、同情に値するのかもしれないが、やはり同情するより感心する方が先に立つ話しだった。





国民よ、自戒せよ

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(2020年5月23日9時55分 日刊スポーツ)

 ウチにも昨日届いた。職場の方には届いていたので、物がどんなものか現物を知っていたが、改めて見て、率直なところ、「真剣さも行き過ぎると滑稽になる」と感じた。まぁ、マスクがないと国民が騒ぎ立て、それに政府が応じた結果である。その発端は国民の側にあるのだから、むしろ責めるというか自戒すべきは国民の側である。
 今回のコロナ禍に関するマスクの考え方は、これまでにもしばしば述べてきたので繰り返さないが、自分もこのマスクは使わないと思う。使わないものが送られてきたから、余計に無駄な血税の使い方に見えるのだが、そんなのは送る側だって分かっていたのだろうと思う。竹槍でB29が墜とせないのは、かつての軍人や政治家だって分かっていた。分かっていてやらせる必要があった、という訳だ。
 勝手な自分の想像だが、自分はアベノマスクは、中韓の転売屋に対する日本政府の断固たる姿勢なんだと思ってる。一応、法律は整備したみたいだが、それを警察力というハードパワーを行使するのでなく、マスクを配るというソフトなアピールで意思表示した訳だ。暴利を貪ろうとする輩に、国税を投じても鉄槌を食らわす。アベノマスクが配布され始めてから、転売屋のマスクの値段はどんどん値崩れを起こし、今や店頭にも通常価格でマスクが並びつつある。アベノマスクは、反転攻勢の象徴だった訳だ。
 マスクを作る、それを配布する、それだけでも人が動き、金が動く。一人一律10万円の給付金も国税から捻出されるのであるが、アベノマスク関連も国税である。その目的とするところは、国民経済を回すというところにある。その意味では、アベノマスクも全く無駄になったとは言い難い。仮に警察力を発動して転売屋を摘発するにしても、やはり金は掛かるのである。
 先の大戦の結果の様に、戦災で生産や輸送の設備が破壊された訳ではない。一過的な品不足が起こっても、増産体制を整える事は比較的容易である。その事を国民がよく理解しておれば、今回の滑稽な転売騒動は起こらなかったはずである。



問題の解決は、双方から

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(5/11(月) 18:00 文春オンライン)

 前に住んでた賃貸マンションのお向かいの家も、子供を叱っている時はこんな感じだった。叱るというより、罵るといった感じである。そこの子はまだ小さかったのか、盛大な泣き声も聞こえていた。そんな時は、しばらく耳をそばだてて、殴ったり物を投げたりする音が聞こえてこないか、注意をこらしていた。あまりにもやかましい時は、玄関にピンポンしにいった。親が出て来たら文句を言うつもりだったが、一度として出て来た事がない。でもピンポンしに行ったら、怒鳴り声は聞こえなくなった。間接的にその子を助けた事になったと信じたい。
 しかし、だからといって、親が100%悪いとは思わない。というのも、怒鳴り声の部分だけ聞いていれば、虐待してるっぽい風に聞こえるが、実は最初は優しく言ってるのに全然いう事聞かなくて、とうとう堪忍袋の緒が切れた、という可能性もあるからだ。自分もかつては、朝な夕なに怒鳴られて、事によってはど突かれていたのだが、ある時、なんでそんなに怒るのかオカンに聞いた事がある。すると「私だってガミガミ言いとおないけど、お前、優しい言うても言う事聞かんやないか。口で言うて分からんもん、シバかなしゃーないやないか」と苦言を言われた。気分次第で虐待する親もいる一方で、出来の悪い子供もいるのである。
 前に、豊田真由子議員が秘書への罵声と暴力を暴露されて問題になっていたが、彼女も文句の内容をよく聞けば、その秘書がいかにボンクラだったかが分かる。うちのオカンに言わせれば、あんな風に言われてもしゃーない、というところであろう。昔ならあれは問題にならない。昔は、下の者、使われる者は、耐えに耐えて、立場が逆になった時、自分がされたのと同じ事を次の者に申し送っていたのである。今の時代は、耐え忍ぶ側が反撃する手段を持つ様になったが故に、ああした問題になるのだ。
 もう一つは、昔なら、基本的に「怒られるにはそれなりの理由がある」と見なされる事が多かったのであるが、今は「まぁ可哀想」という気持ちを持つ世論が強くなった事である。原因の推測はなされないない一方で、結果のみ騒ぎ立てている。自分にはこれがとても片手落ちに感じる。過度かつ不必要な暴力、不法行為は論外であるが(これは加虐してる側の人間性の問題である)、受け手側の落ち度についても考察する必要はあると思う。問題の解決は、双方から焦点を当てていかないと、解析できないと思う。





日本の金は信用せんのじゃ

(2020年5月9日 5時55分 NHKニュース)

 政府が金を出し渋っている時によく流れるニュースであるが、最近はカラクリに気がついた人が増えたみたいで、あまり動じなくなってきている。ここのいうところの「国の借金」というのは、政府がやりくりする家計の事で、日本という国が外国とやりとりする商売上での話しではない。個人の家計に例えると、食費や娯楽費といった生活費は苦しくても、預貯金は目減りせず、ローンも組んでないどころか、兄弟友人に金貸してる、といったところか。「西孝「国の借金」というレトリック」
 日本もかつては、外国に借金してた時代があって、例えば日露戦争の時なんかがそうで、その借金の返済に82年もかかった、なんて話しがあるのであるが、あの当時の日本は、海外に売れるものといえば絹糸くらいで、国民も貧乏で、戦費を調達しようとしたら、外国から借りるしかなかったのである。その40数年後の大東亜戦争の頃は、戦時国債で国民から資金を調達してたのだけど、国のインフラはズタボロになって敗戦、戦争でかかった経費を札束刷って解決しようとして、超インフレになりそうなのを回避するために、国民への借金を棒引きする形で強引に収束させようとした。渡辺智「元銀行員が解説!戦後に起きた預金封鎖とは?」
 今は、別に戦争でぼろ負けした訳でもなく、それどころか海外との商売は順調でそっちの方は金がある。そっちの金に手をつけず、国民の資産を担保にしてた国債(つまり借金)もほとんど国内で消化してるから大丈夫、というのが、「国の借金」説の反対者の理屈である。まぁ、商売の世界では、借金する事は別に悪い事ではなくて、むしろ借金して商売を拡大して儲けを増やす方が利口といった見方がある。それに近い感覚で考えればよいかもしれない。
 しかし、ここで素人考えだけど、不思議に思うのは、そんだけ海外で儲けてて金まで貸してるくらいなら、国民から借金せずにその金を引っ張ってくれば良いのに、と思う。まぁ、そうしないのにはそうするだけの理由があるのであろうけど、また今は調子良くても、その「国の借金」が原因でコケる事はないのであろうか。この分野は不勉強であるので、自分の中にも答えを見出せないのであるけど、ちょっと興味をそそられるテーマである。
 ともあれ、紙幣というのは「信用」で成り立っている。根っから信用するのは個人の自由であるけど、信用の裏側は「不信」である。疑ってかかるのも必要なんじゃないかな。





目標は上を、現状は下を

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(5/2(土) 12:16 Yahoo!ニュース)

 今日、ケーズデンキで浴室灯と流し元灯の工事の手続きを待っていた時、嫁さんが出し抜けに「もっと給付金出ないですかねぇ」と言い出した。何を贅沢言うとるのかとその理由を聞いて見たら、目の前に展示してあったマッサージチェアを指差して、これが欲しいという。お値段48万円。そこで一頻り、この度の給付金の意義を改めてレクチャーした。本質的に、今回の給付は、生活に困っている人を対象としているのであって、国民に贅沢をさせる為ではないのだ。
 その給付金を当て込んで、浴室灯と流し元灯の交換を行うのであるが、これだって見る人が見たら贅沢な事である。世の中には、すでに食うや食わずの人が出始めている。「災禍()()り、家業(を失いたる者」の為の給付金なのである。その人らから言わせれば、別に壊れた訳でも切れた訳でもない照明器具の取り替えなど、それこそ不急不要の贅沢に見えるだろう。
 自分が子供のころ、親からよく言われたのは、「お前はあれ買うてくれ、これ買うてくれと勝手な事ばっかり言うとるけど、親が頑張ってるさかいに今の暮らしが出来るんやで。これが戦争や倒産やらで仕事なくなったり、チャランポランな親で稼ぎが悪かったりしてみい。そんな事言うてられんのやで」という事だった。そして「目標は上みて高みを目指したらええねん。現状は下みてもっと大変な人がおると思ったらええねん」と言われたものである。
 といった様な話しを、どの様に嫁さんが聞いてたか。実は大体想像がつく。「話し長いのぉ、うっさいんじゃ、ボケ」くらいに思ってたに違いない。なぜなら、自分もそう思っていたからであるw しかし、今にして思うのは、その時はその様に思っていたが、この歳になって、「まことその通りである」と感じる。自分が頑張っているから、今の暮らし向きはどうにか維持できている。自分の努力程度でそれなりの暮らしが出来るのは、運の良さでもあり、恵まれていない人に比べたら、格段の幸運である。こうした気持ちの背景は、「感謝」なんだろうと自分は親の言葉を解釈している。





家計管理と家計観念

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(4/30(木) 9:01 現代ビジネス)

 似た様なテーマで先日、日記を書いたのだが、この記事で書かれている事のキモは、純粋に家計管理の問題である。というか、クレジットカードでの支払いの管理の問題である。視覚的な表現をすると、「財布の中の金が減らない支払い」をどう具体的に管理するかの問題だ。この記事を読むと、いかに管理出来てないかが伺い知れる。そしてそういう人が多いのだろう。
 自分がポイント目当てでクレジットカードを使う様になった時、「財布の中の金が減らない支払い」をどう管理するか、それを家計簿でどう表現するかが問題になった。クレジットカードの引き落としというのは、翌月とか翌々月とか、遅れてやってくるもので、しかも口座引き落としである。引き落とされた以上は補充していかねば残高は減っていき、最終的には引き落としが出来なくなる。つまり補充すれば良いのであるが、それを、いつ、どのタイミングで、どのくらいの額を、補充すれば良いのか。
 グダグダ書いても仕方ないので、結論を書けば、クレジットカードで支払ったのと同じ金額を、財布から抜いて別個にプールしておき、支払額のお知らせが来たら、それと同じ金額を口座に入れるのである。つまり、レジで支払ったのと同じ体で財布から抜いていく。カードで払おうが現金で払おうが、同じ様にしとけば良いのだ。帳簿のつけ方としては、「今持ってるお金」−「現金払い」−「カード払い」=「残高」という構造にすれば良いのである。

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 この記事にも書いてあるが、確かに外出自粛で減る支出もあれば増える支出もある。しかし、どっちも金使ってる事には変わりなく、その管理はコロナの有無に関わりなく、日常的な事なのだ。そもそもボーナスを返済に当て込んで、日常の通常会計をどんぶり勘定でやってる事自体、不健全な家計観念だと自分は思う。ついでに言うなら、自分の金の流れを視覚的に理解する必要を「理解してない」のである。
 先日、嫁さんを散々問い詰めたのも、実はこの点であった。「口座にお金あるから」とか「ボーナスで充当するから」と言った安心感で、収入や支出をしっかり把握しない、記帳し忘れる、そう言うのが積み重なり、気が付いたら「足りないかもしれない」と感じ始め、この記事の様な話しになる。家族の全員がこの記事の様なザルな頭であればまだ良いのかもしれないが、ウチみたいに金に細かい亭主が相手だとすると、キツい事も言われてしまう。気をつけたいところである。





本当に他人のためか?

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 前にも書いた様に、自分はマスク着けるのは嫌いである。マスク着けないと毒ガスを防げないとか、ドレスコードに引っかかるとか、そういうのでない限り、着けたくない。現に今でも滅多に着けない。故に、マスクがないからと言って、別に困っていない。1枚100円が闇相場だそうだが、必要ないから、そんな高い金だして買うのなんて、チャンチャラ可笑しい、というのが前回の話しである。
 時に思うのは、みんな、本当に他迷惑を防ぐために着けているのか、という事だ。医療関係者や商売うやってる人が着ける、というのは分かるが、ネコも杓子もマスク着けるという有様には、疑問符が湧く。そもそもそんなに品不足なら、着けてない人が半分以上いても良さそうなもんだが、みんな大抵は市販品を着けているから、不思議なもんである。みんな闇値のマスクを買ってるのか。
 他迷惑を防ぐため、いったいいつの間にそんなに高潔になったのか。自分はちょっと疑問だ。パチンコ屋に行くな、堤防で釣りすんな、モトクロスで怪我すんな、密集は避けろというのに公園やホームセンターは人だかり、挙句に、他県から来た、コロナに罹った疑いがある、そんなんで迫害したりもする。ちっとも高潔じゃないじゃないか。別にそうである事を自分は責めはしない。人間全員に正直に生きろといっても、どだい金槌を水に浮かす様なもんで無理である。だとしたら、どうしてマスクだけはきっちり着けようとするのか。
 マスクをしたら予防できると思っているのか、だとすると、それなりに意味は理解できる。そう信じているなら仕方ない。マスクしてないと白い目で見られる、それも理解できる。世の中から爪弾きにされたのでは生きにくい。しかし、それというのは、迷信や同調圧力ゆえの事であって、別に高潔な意識から発したものではないではないか。
 ぶっちゃけた話し、専門家たちもマスクの有効性については一貫した結論が出せてないらしい(→日常生活でのマスクの着用は、新型コロナウイルス対策にどこまで有効なのか? いまも賛否両論の科学者たち。やらんよりはやった方がいい、というレベルである。1枚100円の闇値のマスクを買ってまでやる事か?と自分はどうしても思えてならない。政府が布マスクの配布を始めたのも、国民衛生の観点からというより、国民が欲しがってるから与えた、といった面の方が強い様に思う。





ゲーム・イズ・オーバー



 人様のブログなので引用は差し控えるが、7枚のカードを使い潰してこの一年でモタードの腕前が急成長したとある大学生の話しが書いてあった。他人事ながら、顔が曇ってしまった。ブログの結びに「彼の精一杯の努力をみなさんも応援してあげてほしい」といった様な事が書いてあったが、もし、自分がその大学生の意見する立場だったら、叱りつけると思う。
 自分がクレジットカードの存在を知ったのは、20代のごく始めの頃。世は華やかなりしバブル景気の時代だった。自分だって月に30万だの45万だの稼げた時代である。にも関わらず、クレジットカードで買い物しまくって、ブラックリストに載っている奴がバイト仲間にいた。そいつの借金に深入りしたくなかったので詳しくは聞いてないが、最終的には仲違いしてた親に詫び入れして、借金の肩代わりをしてもらったと聞いたのが最後だった。小林源文の『オメガ7』の主人公も、カード破産する設定だったが、あの時代は、そういう人が結構いた様に思う。なので自分は長い間、クレジットカードを使う事に非常に抵抗感を持っていた。
 そんなこんなで、今時、そんなアホな事する奴はいないだろうと思ってたら、いるのでちょっと驚いたのだ。このブログの主は、「若い時間はあとから買えない」と書いている。確かにそうである。思い出はプライスレスかもしれない。しかし、後々に重々しくのし掛かる借金の重圧に縛られた人生が残る事を、どう考えているのか。良き思い出というのは、1円の利息にも値しないのである。
 自分もこれまでバイクの趣味には結構な金をかけて、みる人が見たら「アホか」と言われるとは思うが、借金でその金を賄う考えだけはなかった。かつかつであっても幸いに資金が動員できたから、というものあるが、もし金がなかったら、やりたいカスタムも欲しいバイクも、辛抱しただろう。仮にその時「ケチ臭いなぁ」と思われても、あとで支払いが滞って迷惑かけたり、自分がしんどい思いする事を思えば、当てのない金で遊ぶ気にはならない。それが出物であっても、自分には縁のなかったものとして諦める。若い時もへったくれもない。それが自分の力の限度である。





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