たにしのつぼ焼き

あれもしたい、これもしたい、もっとしたい、もっともっとしたい〜♪

雑感

旦那芸

(ロースおじさん お悩み相談所)

 定年になると、そば打ちを始めるおっさんというのが多い。実は自分にもその手合いの人が一人いた。知り合いの友達の人だったので、今はどうなってるか知らないのだが、まぁ、旨かった。しかし、美味い蕎麦が作れるのと、商売としてそれが成り立つかは、多くの識者が語っている様に、別問題である。今だから言うが、あの立地、あの店舗面積じゃ、ちょっと商売としては成り立たないんじゃないかな、と思った。今から15年も前の話しなんで、今は確かめようもない。
 自分も、パン作ったりケーキ焼いたりするし、それがご婦人のフォロワーさんのウケがいいので、ブログに書いたりしてるのだが、それで商売しようとは、これっぽちも思えない。そもそも調理師免許も持ってないしね。どんなに上手に、美味しく出来ようとも、それはあくまでアマチュア。お母さんの作ったご飯が美味しい!というレベルでしかない。大体からして、人にあげようと思って作った時に限って、どっかしら失敗してて、ベストなものが出せなかったりする。その時点で、プロになる資格もないのだ。
 定年になって蕎麦を打ち始める人は、仕事一点張りで趣味がない人が多いとかいう話しも聞く。それでやってみたら結構面白くて、そこそこ美味しい蕎麦も出来て、これだったら蕎麦屋も出来ちゃうんじゃね?と「夢みて」しまう、という流れなんだろう。こういう流れを、自分は馬鹿には出来ない。自分だって、ベストテクスクール通って表彰台に登れると「夢みた」時期もあったわけだ。そういうのも、人生には大事な事なんだと思う。なんの希望も、わずかの感動もない生き様というのは、面白なさすぎる。
 しかし、ええ歳して、限度ってのはわかっておく必要はある。自分が常々思うのは、自分がやってるのは「趣味」であって「仕事」ではない。アマチュアであってプロではない。昔、自分の周りにいたライダーの一部には、日々、鍛錬と研鑽を積んで、危険と恐怖に打ち勝ち、頂点を目指そうとする「プロ紛い」な事を至高とする人が何人かいた。そんな人から言わせると、自分などは努力が足りない、という事らしいのだが、自分に足りないのは努力だけでなく、センスである。「1%の閃き」がない人は天才でないのと同じだ。その事が分かってから、苦行ベースの考え方から解放された。
 蕎麦打ってるおっさんも、わざわざ苦行ベースにのめり込んでいく必要はないのだ。自分で食って美味いと感じるのが一番だし、それ以上のものは別にどうでも良いのだ。「旦那芸」という言葉は、もう死語なんだろうけど、自分が常々大事に考え感じている事は、そういう事なのだ。

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嫁はん曰く、このライ麦パンは、ぶっちゃけ不味いそうな
まぁ、無理に食わせてる訳でもないので
迷惑にはなってないと思うが









どこまで従うか

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FNNプライムオンライン 2021年1月4日 月曜 午後6:30

 間も無く、第二次の緊急事態宣言発出の予感である。「発令」でなく、「発出」という妙ちくりんな用語を使っているのは、罰則や拘束力がない「ただの宣言」なので、命令という形は取れないからだろう。言い換えれば、現状はその程度の状況だとも言える。小松左京の『復活の日』みたいに、死人がバタバタ出て、社会体制の維持もおぼつかなくなくなれば、その法がなくても戒厳を敷くに違いない。
 さて、去年の5月に第一次の緊急事態宣言が「発出」された訳だが、その時、こんな事を書いていた(→スポーツライディングの自粛の考え方について)。そして、練習にもいかず、家で大人しくしたのだが(→自粛中の自習)、今から振り返ったら、ちょっと真面目すぎたかなぁ、と思わないでもない。なるほど、救急車で運ばれる様な怪我はしちゃいけない。しかし、見方を変えれば、怪我する様な乗り方ってどんなんよ?って事になる。普段は出来もしない、ビッグジャンプ飛んだとか、ガレガレのとこに突っ込んだとか、ちゅるちゅるの坂を滑り降りたとか、そういうチャレンジングな事をしたか、あるいはええ格好見せようとして調子こいたか、どっちかであろう。そういうのをしなければ良いんじゃね?と思う訳だ。
 オフロードコースで練習するのは、全然「3つの密」にならない、というのは、去年の緊急事態宣言の前に自分は論じているのであるが、自粛を求められるはずのコースの方でも、同じ様な考えだったみたいで、オフロードコースで閉鎖になったところは、結局一つもなかったのである。
 出来る事を繰り返しやる、あるいはほんのちょっとだけ難しい事にチャレンジする、つまり、安全マージンを十分にとった状態で練習すれば良いんじゃないのかな、と思うのである。怖いなとか、危ないなと思う事は、してはならない。また、やらせてもいけない。そういう心構えが必要だと思うのだ。無論、家にじっとしてるのが一番の正解なのではあろうけど、「じっとしとれますかいな」というのが本音である。









金は臭わない


 こんなツイートが流れて来た。職や身分の貴賤の感覚というのは、身分制度が発生した古来からあって、それは今の時代にあっても、厳然として人の精神の中に息づいているという訳だ。この世に存在するものは、何一つとして必要から生まれたものはなく、また不必要なものは一つもないにも関わらず、醜いものや汚いもの臭いものは、古来から侮蔑と嘲笑の対象だった。おそらく、これはこれからも変わらないのだろうと思う。
 これは自分が子供の頃にオカンから聞いた話しだが、とある町でバキュームカーの組合が、市に対して賃上げを求めてストライキを起こしたそうだ。ところが労使交渉が難航して妥結せず、ついにバキュームカーの軍団が市中から集めた糞尿を、登庁してきた市長めがけて噴射したという。そして「言うこと聞かなんだら、もう一回りして出直してくるぞ!」と凄んだとか。嘘か本当か知らないが、自分が子供の頃はバキュームカーが走り回っていて、月々決まった日に家々から糞尿を回収していた。しかも、シューのおっさんは結構怖かったので、この話しもまんざら嘘とは思えなかった。
 これは、それまで卑しいとされてきた職業の人が、労働者意識に目覚めた事例として受け止めて良いエピソードだと思う。人間は食えば出す。しかも毎日である。それを処理する仕組みは、どうしても都市には必要である。その必要な仕事をしてるものを見下げたり、あるいは最低限の要求さえ無視したら、どういう事を起こすか、どういう事になるか、それを面白おかしく、かつ身もよだつ様なエピソードとして人の口々に伝わったのだ。
 自分はこのツイ主の人に、敢えて、悲しむのでなく、敢然として、自分の仕事の名誉と誇りを、こういう事いうバカに宣って欲しいと思う。高性能なアンドロイドに人間並のAIが搭載される時代がくるまで、こうした汚れ仕事は、人間が、誰かが、やらねばならないのだ。

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Open the Gate

(FNNプライムオンライン 2020年12月1日 火曜 午前11:41)

 今年は12月31日から1月2日の日程で京都の実家に帰省するつもりで、本来なら今朝、四街道駅のみどりの窓口に往きの新幹線の切符を取りに行くはずだったが(復りの2日の分は明日)、急遽、帰省そのものを取りやめにした。というのは、昨日、職場のボスが、「もし、一人でもコロナ患者が出たら、この職場全員が濃厚接触者と言う事で最大2週間足止めされる事になり、業務がストップしてしまう。その場合の対策と、そうならないための対策を検討したい」と言ってきたからだ。東京でも連日感染者が500人前後という中、春先の緊急事態宣言の時よりも、なんとなく重苦しい雰囲気である。こんな話しが出たもんだから、一応は気を遣った方が良いか、と判断した訳だ。
 しかし、個人的には今もってして「風邪みたいなもんで大騒ぎしよって」という気分のままである。というのも、まず自分が罹ってない(罹ってるかどうかも分からない)事、身の回りで罹った人がいない事、罹って重篤化ないし死んだ者がいない事。道端歩いてても、苦しそうにしてるのとか、死体が転がってたり、停電したり断水したり、電車が止まったり、警察や自衛隊が戒厳体制に入ってたり、、、そうした事が、全然ないからだ。こう言ってはなんだが、みんな元気である。ハロウィンだのGo to トラベルだの、何のかんのでみんな普段通りやっていこうという感じに見える。
 このニュースをみると、全国の重症者が500人だという。1億2000万の日本人のたった500人で機能不全に陥るこの国の医療体制って、そもそも体制自体が脆弱すぎるんじゃないのか、と素人目には見える。まぁ、自分が知らないだけで、大変な事になってる現場もあるのだと思うけど、それを国難レベルの民族意志にまで昇華させるには、あまりにも実際に起こっている事が微細に見えて仕方ないのだ。
 先の大戦では、下手したら日本人が2000万人以上死んだかもしれない本土決戦の現実があり、その後の冷戦時代には核戦争による相互確証破壊の文明崩壊や人類滅亡が現実のものとして受け止めれていた。為政者が恐怖で国民をコントロールするには、十分な条件があった。しかし、冷戦後、そうしたカタストロフ的な要素は、フィクション以下になってしまった。テロとの戦いとか言っても遠い国のアリと象の喧嘩だし、米中新冷戦といっても商売同士の諍いでしかない。そこで、新型コロナをいい感じに「恐怖」に煽り立てている様な風に見えて仕方ない。
 テリー・ギリアムの『バロン』(原題: The Adventures of Baron Munchausen)のラストシーンの事を思い出す。城壁の外にはトルコ軍が包囲してるぞ!という市長に対して、バロンが勇気をもって城門を開けと言う。果たして、城門の外は、撤退したトルコ軍の残骸だけが残っていた。なんか、そんな風な感じが、どうしても自分にはする。

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ただただ運が

(NHKスペシャル 2020年11月29日放送)

 たった今、見終わった。この手の番組を見る度に、「自分がただただ運が良かった」と思う。実際そうだと思う。人並みな努力なら、大抵の人はやっている。やっていてなお、運に見放された人らが、いきつく先がホームレスだのひきこもりだの、その果ての孤独死だと思う。なんの為に生まれて来たか分からん人生とその終わりである。
 自分を育てた親の世代は、戦後の貧乏から高度成長期に向かう「努力が報われる時代」の人たちだったし、さらにその前の世代は閉塞した世の中を否応なく戦争で戦った世代である。ともあれ、頑張らなどうにもならんかった時代、頑張らん奴は放っておくしかない時代、そういう時代を生き抜いた人たちからみたら、ひきこもりなどというのは、落伍者以下の自堕落者でしかない。自分もその様に言われて育てられて来た。だから、嫌な事からは逃げたらいかんと思うし、嫌な事でも辛抱してやらないかんと思ってはいる。
 しかし、その一方で、自分だってうっかり間違えば、ああなっていたかもしれないのだ、という思いが強い。失業したり、解雇されたり、争議闘ったり、また無職になったり、適応障害になったり、そうしたピンチは自叙伝が書けるくらいある。そのどれかが、ホームレスだのひきこもりだののキッカケになったとしても、全く不思議はなかった。そうならなかったのは、なるほど努力だの頑張りだの、諦めないだの嫌な事から逃げないだの、そうした自助もあったかもしれないが、やっぱりそれだけではない、運があったからこそだと思う。運が良かったのだ。
 「失業というのは、ただ単に生活の糧を失うのみならず、社会から必要とされてないという思いこそが打撃なのだ」と誰かが書いてたが、この番組が描いていたのは、まさにその事だったのだろうと思う。自分の場合、無職の時であれ、争議の時であれ、誰かしらとの繋がりがあり、またそれを断ち切るほどに追い詰められなかった。それが、この番組に出て来た人らと、自分の決定的な違いだったんだろうと思う。
 ただ、一つだけ言えるのは、落ち込んで縮こまってる人というのは、助けようという人もあまりいなければ、チャンスも掴み難い。前向き、というのも、極めて重要な要素なのである。自分には、運、人との繋がりの前に、それがあったのかもしれない。

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遠因たるもの

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 大体、胃や十二指腸に潰瘍が出来て出血する、というのは、ストレスが原因である事が多いという。その意味で、今回の件も心当たりがある。一つは、仕事の担当が経理になって、分からなかったり、困ったり、イライラしたり、そういうのが積もり積もっていたのは事実である。もう一つは嫁はんがボンクラで、毎日、小学生相手に怒る様な事が続いていて、これがストレスになった事も間違いない。その他で思い当たる事があるとすると、睡眠の質が悪くなったというのがある。これは既に薄々感じていた事であり、対策も取る様になっていたが、睡眠が不十分でイライラする事が多かった。これもストレス源になっていたのは間違いない。
 ストレスのない世の中なんてのは、この世には存在しない。それが証拠に、退院したしりから、このザマである。
 もう、一体なんなんだと思う。血圧計と猫のエサは、まぁ自分のドジである。自分のドジでさえも腹が立つのに、嫁はんのドジまでこっちにおっ被せられたのでは、そりゃストレスフルになるのも至極である。怒ったところでどうにもならん事も多いし、むしろ関係を悪化させてしまい、余計良くない方向にいってしまう事もある。そう思って冷静になろうとすると、自分をどこかで押さえつけて、それがまたストレスになる、という感じなんだと思う。
 もう、どうあってもストレス溜まって、最終的にはこないだの様な感じになってしまうのなら、いっそそうなった方が良いのかもしれない。台風とか火山の噴火とか落雷とか、そういうのと同じで、蓄えられたエネルギーは、一気に放出されない訳にはいかない。そういうもんなのかもしれない。そうした爆発を避けつつ、負のエネルギーを放散させる、もしくは感じさせない様にするには、もうある種の薬物、脳の働きに作用する化学物質に頼る他ないのではないか。







クラウドファンディング

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 自分が時代遅れなのだと思うが、最近、飼い猫の治療費を見ず知らずの人からの募金で賄う動きが活発である。クラウドファンディング、いわゆるクラファンという奴である。何か事業を起こすために出資を募るとか、あるいは恵まれない人に募金する、といった事は、人間の営みの中で大昔からある事であるが、飼い猫の為に募金を募り、かつそれに100万も集まるといった現象に、自分はちょっと奇異なものを感じている。
 有名なこぼれ話しだが、とある女性が飼っていたハムスターが死にかけて、医者に診せたら、治す為には目の飛び出すような治療費が掛かると分かった。その話しを母親にしたら、それまで気の毒がっていた母親が「ハム吉には死んで貰いなさい」と宣った、という話しである。その治療費で、一体何匹のハムスターが買えるか、という事を考えたら、当然の帰結である。
 自分は、両足の怪我が治らない野良ヒマラヤンを実家の親父に押し付けた事があるのであるが、親父はそのヒマラヤンを大層可愛がって、結局死ぬまでの4年間に100万円以上の治療費を払ったという。100万もあればヒマラヤンの子猫が5匹は買えそうなもんだが、後悔してないと言う。思い入れの強さと言うのは、そう言うもんであろう。
 といっても、それは金があったればの話しであって、無ければ出せないのは当然であるし、もちろん助ける事は出来ない。金の有る無しは、自分の甲斐性の問題であるから、無くて困るのも恨むのも、自分自身、と言う風に自分は認識してきた。が、最近はそうでもないのかな。
 人のやる事に口出しする気はないし、金出す気もないから口出しする権利もないのだけど、それでもやっぱり、自分の事は自分でやったらどうなんだろ、と思う。それが社会的に意義のある事ならともかく、純粋にプライベートな事なんだし。それとも、こう言う考え方は、酷薄なんだろうか。見ず知らずの人の猫の為にお金出すのが、今日の慈愛の表し方なんだろうか。






目的による取捨

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 今朝、とあるツイートが気になったので、それに関するツイートをしたら、反応が大きかったので、改めて自分の考えというか、思いを書こうと思う。
 猫垢もフォロワーさんが1600人を超えると、色んな人がいるもので、悲惨な目に遭った猫の保護活動をしている人もいれば、難病に罹った飼い猫の治療費の募金を募る人もいるし、可愛がってた猫が死ねば花一杯の亡骸の写真を載せる人もいる。誰も彼も、好きな猫の為に必死で頑張っている人達だ。頑張りには頭が下がるし、不安や悲しみには共感するのであるが、毎日毎日そうした画像やツイートを見てたら、気が滅入るのも事実である。
 ツイッターをやってる目的は、人それぞれだと思うのだが、上記に挙げた様な事を目的にしている人もいれば、「ウチの猫可愛いから見て!」って人もいるだろうし、「猫飼えないから、飼ってる人の猫見たい!」って人もいるだろう。そう言う人にとって、悲惨な猫の写真や、支援の要請というのは、はっきり言えば自分の目的と合致しない、不必要な情報である。なるほど、可愛そうとか、頑張ってるとか、そうした無下に出来ない話しだけに、そっぽ向くのは気が咎める気がするのだが、だからどうしろというのだ、というのが本音のところだと思う。
 だから、自分は、あまりにも度重なる人の場合は、ミュートするのを勧めている。SNSと言うのは、共感する場であって、共感できないものはしなくて良いのだ。逆の見方では、様々な情報の中から、自分に必要な情報を拾い集めてくる場なのだ。そうした取捨が、ユーザーに求められているのだと、自分は考えている。
 そう言う取捨をせず、自分の目的を果たせず、辞めてしまうと言うのは、ちょっと勿体ないな、と言うのが自分の主な考えである。









嫌な事から逃げたら行かんのや

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 経理の仕事に回されてから、「大体は半年後に爆発する時限爆弾」を抱える様になった。時限爆弾というか、ブービートラップの様なもんで、気を付けてても足を引っ掛けてしまう様な性質である。別に志望した訳でもないのだが、嫌やからと言って仕事辞める訳にも行かん。そんな事しても先がないのだから、薄氷の上を爪先立ちで歩いて行かんと行かん。爆弾が爆発したら、その後始末もせな行かん。嫌な事も辛抱せないかんのだ。
 そこでいつも思うのは、物心ついた時から、オカンが口酸っぱく「嫌な事から逃げたらいかん」と言ってた事だ。嫌な事から逃げたいというのは当たり前の感情だけど、それから逃げてもまた次に嫌な事が来る。逃げれてるうちは華やけど、いよいよ逃げられん様になった時、取り返しがつかん様になってるもんや、というのだ。それを言われてれた時は、実はあまりピンと来なかった。しかし、子供であっても嫌な事はあるし、それから逃げたくても親がそうはさせない。ただ単に「逃げるな」というだけでなく、色々知恵も付けてくれたお陰で、学校行きたくないだの、仕事行きたくないだのと言った、腰抜けな人間にはならずに済んだ。
 自分はこうして「昔の人間」に育てられたお陰かせいか、昔風の人間に育ってしまったのだが、最近は
「嫌な事から逃げろ」という風潮が強い様な気がする。「逃げるが勝ち」という言葉は昔からあるのだが、それとはちょっとニュアンスが違う様な、そんな気がする。世の中には、別にせんでもエエ事も結構あって、そういうのからは別に逃げようがサボろうが差し支えないのだが、ここ一番、頑張らないかんと言った事からは、逃げたらいかん。例えは悪いが、交通事故起こして人はねたのに、その場から逃げる事を考えたら、理解出来るんじゃないかな。つまり、責任が掛かってくる場合は、逃げたらいかんのだ。
 ブラック企業で心身ともに壊れそうになって退職する。これも逃げの一つであるが、この場合の責任というのは、無職になって生活の糧を失う事である。しかし、それ以上に損失が大きいから逃げるが勝ちになる。不登校(という言い方は間違いである。登校拒否と言うべきである)も同様である。自己の責任と損失を天秤にかけたとき、損失の方が大きい場合、「逃げるが勝ち」になるんだろうと思う。
 しかし、責任というのは、往々にして自分一人で完結するものではなくて、相手や仲間や家族が絡んで来る。無職になって、家族もろとも路頭に迷う様な無責任は、やっぱり出来ない。だから嫌な仕事でも行かないかん。これが「嫌な事から逃げたらいかん」というオカンの躾に繋がってくるのだ。

 楽しい時間も嫌な時間も、同じ一分一秒である。その瞬間は、猛烈に嫌だろう。首括りたくなるだろう。でも、そうした時間も過ぎ去っていく。現に今日の嫌な事は、3時間前の話しである。真摯に向き合った結果、それ相応の片付き方がした。おそらく、来年には記憶の片隅になっていると思う。








孤独の為せる

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(2017.11.02 erva)

 朝、猫垢を見て一番最初に目に飛び込んで来たのが、多頭飼い崩壊の現場の動画で、起き抜けから四門出遊みたいな気分になってしまった。正味の話し、猫に関しては、面白いのか可愛いのしか見たくないので、多頭飼い崩壊とか虐待とか大怪我とか大病とか死んだとか、そういうのはオミットしたい気分なのだが、フォロワーさんが増えた事もあって、どうしてもそういうのが流れてくる。それらもまた、猫を飼うという行動の一分野なのである。
 多頭飼い崩壊に関しては、前々からボケ老人がゴミ屋敷作るのに近いものを感じている。ボケちゃってるんだから、もう世の常識は通用しない。他迷惑も関係がない。自分さえ良かったらエエ、という世界である。物言わぬゴミと違って、動物は生き物であるから、適切な飼育がされなければ、その結果は悲惨なものになる。ゴミ屋敷のボケ老人なら、ゴミがいくら増えても困らないのであろうが、多頭飼い崩壊の場合は、多頭飼いしてる本人が手に余って保護団体に助けを求めてくる。要するに、無責任かつ他迷惑の極みである。と言っても、ボケてないまでも、どっかしら頭の線が抜けてるか切れてるかしてる様なのが当事者だったりするので、責任の問いようが無いというのが実際のところである。
 しかし、自分も齢半世紀を超え、そうしたボケ老人の事を笑ったり責めたり出来ない様になっている。「年寄り笑うな往く道じゃ」という訳だ。松屋の券売機で店内で牛丼を頼むのに難儀する様な体たらくである。自分だって、どっかで間違えばそうなってしまう可能性があるのだ。
 という訳で、多頭飼いが崩壊してしまう原因とか理由とかを、ざっくり調べてみた。その理由は一つや二つでは無いが、この記事の最後に出てきた引用を見る限り、「貧乏で、孤独で、高齢」という寂しい奴に有り勝ちな現象、という風に感じた。特に孤独というのは、大きなファクターなんだろうなと思う。猫であっても、沢山いれば寂しさを紛らわせるのかもしれない。人形やフィギアに囲まれて生きてるよりは、相手が生き物であるだけに、まだしもそっちの方がまともそうに見える。しかし、貧乏してるから去勢避妊手術の金は出ないし、歳くって体がいう事聞きにくいから世話や掃除も不十分、と言った具合なんだろう。
 若いうちには、孤独といのは燦然たる自由の輝きに隠されて意識もしないものだが、歳とると孤独といのは色んなものを飲み込む闇となる。それは、ゴミ屋敷や多頭飼い崩壊だけでなく、孤独死の問題にも行き着く原因なのだ。ここに、高齢化時代の、何か大きな問題の矢印がうっすら見えてくるのである。






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