嫁はんが父方のお祖父さんの軍歴証明を取った。一体なんの興味があって取ったのか分からんが、分からんなりに取りっぱなしの感じなので、自分が解説した。まず、兵歴簿にはこう書いてある。
年 | 月日 | 所轄 | 記事 |
昭和19 | 9.15 | 三重航空隊 | 入隊海軍二等飛行兵ヲ名ズ 第15甲種飛行豫科練習生 |
昭和19 | 10.15 | 海軍一等飛行兵ヲ名ズ | |
昭和19 | 12.15 | 海軍上等飛行兵ヲ命ズ | |
昭和20 | 3.15 | 海軍飛行兵長ヲ命ズ | |
第九○三航空隊 | |||
昭和20 | 9.1 | 任海軍二等飛行兵曹 | |
昭和20 | 9.1 | 豫備役編入 現役満期 |
嫁はんのお祖父さんは、軍隊時代の事をよく話ししてたらしく、昭和19年9月に予科練に志願して入隊し、行った先は三重だったとの事。この辺りは記録通りである。問題はこの後で、お祖父さんの話しによると、静岡の清水の航空隊に行って、最後は青森のどっかで終戦を迎えたらしい。しかし、そうした事は兵歴簿には書かれていない。ただし、清水には予科練の航空隊があり、第九◯三航空隊は東日本の索敵哨戒を担任する部隊で、大湊の方にも派遣隊があったので、三重から清水に移動して、大湊の方で勤務してた可能性がある。ちなみに、お祖父さんは手相で偵察員に回されたそうである。昭和20年9月1日(日本降伏の前日)に、ポツダム進級して兵曹になって即日予備役編入、家に帰されている。
さて、こんな事もあってか、嫁はんはら霞ヶ浦の予科練平和記念館に行きたい行きたいと小学3年生みたいにせがまれたので、行ってきた。ウチから1時間半くらいの所にあるのである。
この種の記念館を見ていつも思うのは、「光と陰」の「光」の部分にしか焦点は合わされてないなぁ、という事だ。前に舞鶴の引揚記念館に行った時も感じたが、見せたくないのか見たくないのか分からないが、ちょっと勉強すれば分かる陰の部分が、全然描かれていない。陰だらけのシベリア抑留でさえそうなのだから、予科練などはもっとであろう。いろいろ罰直があってご苦労されたに違いないのに、そうした部分は、ひとっつもなかった。
その一方で、予科練習生が受けた試験や学科の内容をみて、レベルの高いのをやってたんだなぁ、と感心した。自分だって中学高校で数学の授業を受けていたが、当時の自分の頭のレベルで解けたかどうか、怪しいもんである。まぁ、飛行機にせよ航空術にせよ、学問の塊りであるから、知的レベルが高くなければ務まらないという訳だ。戦争で死んだ人も多いのであるが、生きて帰ってきた人たちが、戦後の日本を引っ張って行ったというのは、ある意味、うなづける話しである。ちなみに、嫁はんのお祖父さんは戦後、小学校の先生になって教頭まで勤めたとの事である。
記念館の隣の、陸自の敷地内にある雄翔館も見てきたが、こっちの方はまだしもバイアスのかかり具合が少なくて、史料的価値が高いかな、と感じた。