2019-11-04 11.38.29-1
 Beta X-Trainer250を買う話しが急浮上して、ウキウキしながら計算してると、嫁さんが「無駄遣いですねぇ」と宣うので、無駄と贅沢について講釈した。
 まず、贅沢について。100万円もするバイクを買うというのは、確かに贅沢である。見方を変えれば、金が無ければ出来ない事である。自分がバイクに復帰したのは、2006年12月にXR250を買った時からだったのだが、欲しいと感じてから買うまでに、実に半年も悩んだのである。その理由は、一旦辞めたものを再び始めて、また辞めてしまうかもしれないではないか、という気持ち(つまり無駄になる)もあったが、それ以上に足枷になっていたのは、当時の自分は争議が終わって、まだ定職についておらず、収入や身分に大いに不安があったからなのである。実のところ、金はあったのだ。しかし、ポンと使うには、補充の見込みも先の保障もない身の上では、なかなか決心しかねたのである。これは贅沢とかで推し量れる話しでない。
 幸いな事に、その後、今の職に就けたお陰で、このブルジョアな趣味を続ける事が出来た。自分が常々、結果云々で陰口叩く連中に対して思うのは、「こんな金のかかる趣味をやってるだけで偉いわ」という事だが、改めて今の自分の境遇の幸せさに感謝する。貧困や、親の介護や、嫁さん子供養うやなどで、やりたくてもやれない人も沢山いるだろう。それに比べたら、自分は幸せなのである。
 不幸な人々の生活や人生と自分のそれを取り替える事は出来ない。自分の収入をそうした人に与えるという方法もあるが、そうする事で自分が得られる物に価値を見出せない以上、それは無意味な事である。人に施すのが好きという人も居ると思うが、それはその人の「趣味」であって、自分が趣味に資金を投じて得る満足と同様のものを得ているに他ならない。仮に自分が2006年の暮らし向きのままであったら、様々我慢を強いられて、かつ諦めもしていただろう。そうでないから、そうしてないだけの話しである。お釈迦様は、シャキ族の王子だったのに、それを捨てて苦行の道に入っていったが、それとて客観的には「好き好んで」そうしただけの話しで、強いられてた訳ではないのだ。
 つまり、他人から見れば、自分のやっている事はとても贅沢な事だとは思うが、自分は自分の境遇で精一杯、目一杯やるだけの事である。恩義せがましい事であるが、それによって、バイクメーカーの売り上げが上がり、バイク屋の生活が潤うのなら、それはそれで意味のある事ではないだろうか。
 次に、無駄について。無駄というのは、言葉の意味としては「役に立たない(余計な)こと。効果・効用がないこと」とされているが、自分がこの趣味でこれを感じる事は一つもない。例えば、XR230“パンツァーファウスト号”には、延べ165万円の資金が投じられているのであるが、これはX-Trainer250が2台も買える金額である。なので当時から結構小馬鹿にされていたのであるが、はっきりと言っておく。あのバイクを乗り易く、格好良くする事は、無上の喜びだった。これだけで無駄でなかった事ははっきりしているのだが、それだけでなく、あのバイクがあったから、その後、自分が目指すべき方向性もはっきりしたし、バイクをどうすれば乗り易くなるか、乗り易いバイクはどういうものか、そうした事が学習出来たのである。
 まぁ、虚無的に、何もかも無駄と言い切る事は可能であるが、ではバイクも買わず、レースも出ず、コツコツとお金貯めていく事が有益な事なのか。お金貯めるのが趣味な人はそれでもいいと思う。かつて、東京出てきてサバイバルゲームに復帰するまでの自分は、お金貯めるのが趣味であった。しかし、その頃、自分が何をしていたか、さっぱり思い出せない。したい事がなかったから、お金貯めてたのであって、何もしてないから記憶に残ってないのである。こういう人生って、それこそ価値があるのであろうか。
 無駄というのは、何もしない事なんだと思う。まぁ、使いもしない物を買うのは無駄遣いであるし、実のところ、無駄になってしまう事や物もままあったりするのであるが、何か目的があって買ったものは、基本的には無駄ではない、というのが自分の考えである。