五十嵐均著『審判の日』(定価680円+税)●角川文庫刊)を実は三日前に読了していた。この本は、珍しくのめり込んだ本である。そもそも第一、タイトルがいい。これが海外作品だったら見向きもしなかったのだろうが、日本人作家でここまで言い切ってしまうタイトルを付けるのは、小松左京くらいなものであろう。内容を触れると、読了前の読者の意欲を逆なですることになるから、深くは追求しないが、要は最新技術で神様(この作品の場合は「神の子」)を作って、自分の願望なり理想を実現しよう、というモノ。作品のスタンス的には、アイラ・レヴィンの『ブラジルから来た少年』に近い。
 遺伝子工学の発展は目覚ましく、ついこないだ、ドリーとかいう羊のクローンが出来たかと思うと、今度はそのドリーが子羊を産んだとかで、新聞の片隅を賑やかしていた。要するに、今日の、そして将来の遺伝子工学をもってすれば、少なくとも肉体的物体的な意味での生命のコピーは可能だ、という事だ。その内、そのコピーした体に、その遺伝子の提供者の記憶を移植する技術が完成する事であろう。そうなれば、秦の始皇帝の夢も叶おうというものだ。
 しかし、今の技術では、コピーした体に自分の記憶を、その一部でも植え付ける事は出来ないらしい。つまり、体つきは間違いなくそっくりでも、人格は別個、という訳だ。しかも、今の自分の姿をコピーするのではなく、自分と同じ遺伝子を持った子供が出来る、という制約がある。すなわち、その自分のコピーは、新たな人格として成長していくのだ! という事は、自分とは違う(どう頑張っても、自分が育った環境を再現する事は出来ないだろう)環境で育つ自分のコピーは、自分とは違う人格に育つ可能性の方が大きい、という事である。『ブラジルから来た少年』では、この辺りがきちんと描写されていたが、『審判の日』の方ではされていなかった。
 しかし、いずれにしても、自分とそっくりの肉体を要求するなどという事は、極度のナルシストか、誰にも手渡したくない程の権勢を持っている、と自覚した者であろう。言い切ってしまえば、肉体は別でも、自分の人格が永久に生き続ければ、それでも良いはずなのだ。事実、巨大なコンピュータによって、人格を保持し続けようとする研究が、アメリカあたりでは行われているし、自分の脳ミソだけ摘出して冷凍保存する財団もあるのだそうな。それはそれで良いとして、問題なのは、そこまでして生き続けたいのか、そうまでして守るべき人生なのか、という事だ。
 私などは、一体どうして自分がこの世に送り出されてきたのか、常々考えさせられる。不細工な造りの外見に、最悪の人間性。こうした人間が、果たしてこの世に必要であったのか? 例えば、土中に住む気味の悪い生き物とて、分解者としての役割を持っている。しかるに、一個の人間たる自分には、何の任務が課せられているのか。ぶっちゃけた話し、自分の人生に何の意義も感じないのである。言い換えれば、神が何かの手違いで、自分を作り出したのだとしか思えないのである。この世には、色々な人間が住んでいるが、素晴らしい人生を与えられないのであるならば、そんな人生は返上したい、と考えている人間が大勢いるはずなのである。自分はその一人である。
 人生、人間の生命は、選択の余地なく、押しつけられる。しかも、それを全うする様に要求される。親共は、生まれてきた子供に大きな期待を掛ける。しかしその子が手に持っていた箱の中には、宝石ではなくて糞が入っているかもしれない、という事は考えない。その子が、一生その糞にまみれて生きていかねばならない、という事に想像力が働かない。クローン技術を開発している連中も同じである。生命は、どんな手段を使ってでも、究極的には製造可能である。しかし、素晴らしき人生、神からも世界からも祝福された人生は、絶対に生産不可能である。それは、運命であり科学や技術といった人智を越えた問題である。来世紀に宗教が生き残るとしたら、この世の中の絶対的な不平等をテーマにする他ないであろう。