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 今日は、飯盒由来の地、大阪砲兵工廠跡に社会見学。
 しかし、見るべきものは、正門跡と衛兵詰所跡、化学試験場跡だけで、いずれも廃墟で中には入れない。本工場跡は大阪城ホールが建ってるので面影もない。あっと言う間に見る物が無くなった。
 仕方ないので、入場料600円払って大阪城天守閣に登った。しかし、今の大阪城本丸は、昭和6年に大阪市民の献金によって再建されたものであって、それまでは本丸なしの城だったとか。つまり、徳川慶喜公は、鳥羽伏見の戦いから撤退する時も、明治になって大阪砲兵工廠で飯盒貰った時も、自分が見下ろしたのとは違う位置、高さから大阪城下を見下ろしてた、と言う事だ。実はこれ、今回行くまで知らなんだ。
 本丸側の第四師団司令部も、本丸再建の折に建築された由。しかし、大阪城ともども戦災を免れた。と言うのも、砲兵工廠の方は、8月14日、つまり終戦の前の日に空襲食らって壊滅したのだけど、側の大阪城は爆撃食らわなかったから。まー、米軍も明日辺りに戦争終わるの分かってたろうに、底意地悪く、戦略的に価値のある工廠だけ空爆して、価値のない大阪城は無視した訳だ。
 しかし、大阪市民にしてみたら、工廠なんかより大阪城の方がなんぼ価値があったろうか。忘れ去られ、朽ちるに任されてる化学試験場と対照的に賑わう大阪城の姿に、大阪市民の心意気とリアリズムを見た気がした。