こないだ、28年前に亡くした猫の事を書いて、ふと感じた。あの猫の事だけは、今、思い出しても涙するくらい後悔があるのだけど、それは全力を尽くし切らなかった思いがあるからなんだと。もちろん、その時、自分は精一杯だった訳だけど、後になってから、ああすれば良かった、こうすれば良かったと、感じてしまうのは、やっぱり「やり切った」という思いが持てないからなんだと思う。
 猫に関して言えば、その後、2匹亡くしているのだけど、そのどちらの猫に対しても、初代の猫の様な思いはない。それぞれに、亡くなるに至る経緯はあり、残念な事をしたという思いはあるけど、必要な経費を投じ(それが出来るだけの職に就き、財も持ち)、最期を看取り、宗教的手続きを以て葬れた事が、初代猫の様な「積み残した感」を残さない理由なのだと思う。
 趣味に関して言えば、自分は日本原初のサバイバルゲームプレイヤーの一人で、以来、断続的に20年間続けて来たのだけど(後述する争議の間さえも、辞めはしなかった)、率いていた部隊が、自分がとうとう最期の一人になってしまい、その世界から足を洗う事になった。たかだか趣味の話しであるけど、20年である。自分の人生そのものと言っても差し支えなかったのだが、それがある日、パタンと終わってしまった。時期が、争議が終わって、それでも就職できなかった時と被ってしまい、何もかも失って、全くの虚無に陥ってしまった。……でも、今になって後悔がないし、サバゲーをまたやろうとも思わない。色々悩んだり、苦労したり、辛い事も、達成できなかった事もあったけど、やりたいと思った事はやりきった。もう、やりたい事が残ってなかったんだと思う。
 30代前半の争議は、文字通り、人生賭けた闘いであったし、ある部分、人生を棒に振りもしたと思う。3年闘って、終わった時には、まるで敗戦国の復員兵の様な心境だった。再就職がなかなか決まらず、絶望を通り越して、このまま孤独死するんじゃないか、という思いに押しつぶされそうになっていた。……でも、やはり、今になって後悔がない。それは、その争議を、自分の持てる力と知識と忍耐で闘い抜いたからだと思う。争議を始めるのも、それを終わらせるのも、自分の決断だった。自分の責任において決心し、死力を尽くして闘った。終わった時の虚脱感は、結果に対する大いなる不満だったんじゃないと思う。文字通りの虚脱だったんだと思う。
 その他にも色々あるが、成功した部類でも6分4分、大抵は失敗したと感じているのだけど、それでも時間が経った今となっては、後悔はない。その時々を必死に頑張ったんだと思う。
 そして今、先々、残り時間が少なくなって来た感じもあるのだけど、まだまだ馬力出せる今、やはり、中途半端に終わらせてはならない事がある。バイクの事だ。結果も出せず、努力も足らず、大方の人も相手もされなくなった訳だけど、だからと言って、「所詮、自分はこの程度」と思ってはダメだ。結果がどうのとか、人がどう思うとか、そんな事はどうでも良い。必要と思う物を買って、やりたいと思う事をして、思い残す事なく楽しまないと。
 具体的には、新しく出たCRF450RX、もしくは来年辺りに出るであろうCRF250RXに乗り換える方向で、諸般、研究を進めてみようと思う。やはり、ちょっとでも心ときめく物を横目で通り過ぎるのは、後悔を残す元である。