自分が小学生の頃は、どんなもんでも「みんな持ってて当たり前」の時代だった。たとえば、小学校3年の時に、爆発的にシャープペンシル(シャーペンなどと安っぽく呼ぶ代物ではなかった)が流行ったのだが、そんなもん買って貰えなかった自分は、クラスで真人間扱いして貰えなかったのである。当然、その窮状をオカンに訴えるのであるが、その返答は「アンタ、鉛筆与えてあるやん、あれ書かれへんのか?」という、真っ当至極な答えで、非常に悔しい思いをした。
 そのオカンは、まさに「三丁目の夕陽」世代の人で、しかもかなり貧乏。鉛筆も持てなくなるまで使ったのを見せないと、次のを買って貰えなかったとか、運動会の徒競走で1位になって何が嬉しいといっても、鉛筆か貰える事だったとか、そういう貧乏タレな話題に事欠かない人だったのだ。
 しかし、上には上がさらに居るもので、そのオカンの親の世代となると、ガチ貧乏、パーフェクト貧困世代である。もともとそんなに貧乏してなくても、空襲で焼け出された世代な訳で、オイルショックでトイレットペーパー騒動が起こった時など、「今の子は本当の貧乏を知らん」と鼻で笑ってたそうである。
 自分は、こうした親や祖父母に育てられた世代である。実のところ、3度の飯に事欠いた事も、給食代払えなかった事も、学費にも事欠いた事がない。余計なものは滅多に買って貰えなかったが、要る物はちゃんと与えられていた。だから、「貧困」というのは、エピソードとして知っているだけである。しかし、知らないのと知っているのとでは大違いな訳で、貧乏した時に知恵の回り方というか、サバイバビリティというか、生活力というか、そうしたものは意外と高かった様な気がする。
 28歳で餓死とか、43歳で無理心中とか、確かに社会的な不備もあると思う反面、親から子へ受け継がされる経験値こそが、貧困なのではないのか、と感じる。

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