■小籔千豊 「校長が生徒に『しばいたろか』と言うのは当然」
(2015年06月10日 07:21  NEWSポストセブン)

 今の学校での躾の原点ってのは、おそらく、戦前の国民学校から戦後しばらく、復員した軍人なども教員になった時代にあると思う。言ってみれば,ビンタが全てを解決する時代、戦前の悪習がグロテスクに集約された時代だ。戦後、そうした風習に対する猛烈な批判が起こる。映画『二等兵物語』のラストで、伴淳三郎がこう叫ぶ。

 「俺たちはやっぱり同じ人間だぞ! 一銭五厘のハガキで呼び出されたからって、俺たちの命を、そう安く値踏みしてもらいたくないんだ! 俺たちだって、やっぱり赤い血が流れてるんだぞ。へん、蚤でもなければシラミでもないんだ! 貴様ら、一度だって俺たちの身になって物を考えた事があるのか! お前ら、俺たちの悲しみや喜びがわかるか! 一緒に寝起きしておきながら、どうしてこう、憎しみあって来なくちゃならなかったんだ! 間違った事をしでかしたからって、なぜに直ぐビンタを取らなきゃならなかったんだ! 憎しみよりも、お互いの信頼があったら、軍隊は楽しいもんじゃなかったのか! お国のために働こうという気持ちに、本気になれたんじゃなかったのか。貴様ら、殴る事が人間を良くする道だと思ってんのか。そんな野蛮な事で、人と人が結びつけると思ってるのか!
 お互いに助け合い、励まし合う信頼が、信じ合う事が、どんなに大切か、貴様ら知ってるのか!」

 それでも暫くの間は、バーバリズムはあったと思うし、学校よりも家庭においては、自分が子供の頃まで残っていたのである。しかし、すでに自分が子供の頃には、教師は生徒を殴らなくなっていた。そして、今は親も子を殴らない時代である。そして、学校を取り巻く(いや、家庭もだが)環境は、逆転現象が起こる様になっている。教師や親が、生徒や子から舐められる時代なのである。
 この芸人の言っている事は、ほぼ正しいと思う。自分も同じ様にやる。それは自分が親からそうされたから、子に申し送るという意味でなくて、それが人として、また世として、正しいと感じるからだ。ただ、この芸人が言葉で語らなかったのは、暴力は恐怖の道具である事は間違いないが、そこに「心」が介在している、という事だ。おそらく、当たり前すぎて語るのを忘れたのだと思う。
 戦前の、平和な時代での軍隊でも、ビンタ取るってのは日常的に行われていた様であるが、大戦末期の様な非人間的な、非情なものではなかった様である。自分の親も、ありとあらゆる物で自分をぶん殴り、罵倒してくれて、その時その瞬間は恨みもした訳だが、もし本当に憎しみしかなかったなら、ネグレストされてたに違いないと思うのだ(当時にあっても、そういうケースはあったのだ)。
 今の暴力は、下す方も下される方も、「心」の存在が確かめられないのである。

頭脳と手の仲介者は心でなければならぬ。
(テア・フォン・ハルボウ『メトロポリス』)