■貧困女子の貧乏生活!家での食事は恐らく刑務所以下?
(【アラサー貧乏女子】貧乏生活脱出ブログ 2016年6月17日)

 今から2年ほど前は、こうした記事が結構目に付いた。今は孤独死の方が毎日の様に目につくから、貧困状態は多少は改善されたのであろうか。そうあって欲しいものである。
 先進国の、しかも結構上の方に位置している我が国で、食事に困るほどの貧乏人が居る、というのが非常に奇異であった。自分が親から聞いてた、戦後の貧乏話しとはまた違う。昔は何のかんので貧乏人が多かった様だし、それが当たり前の世の中で、知恵のある者、マメな者、そうした能力のある人が、貧乏ながらもマシな生活に向かって行ったイメージである。ところが今の貧困というのは、世の大半がまだ総中流の意識の中で生活しているのに、運の悪かった人が貧困層に落ちて、誰にも相談も共感もされず、一人で絶望的な生活をしてるイメージである。自分みたいに、親世代の貧乏話しも聞いた事のない若い人にとって、自分の立ち位置さえ分からない状態で、どうする事も出来ないでいる。それが今の貧困なんだと思う。
 こんな分かりきった事を、今、改めて黙考したのは、「今の若い人は、食費切り詰めるために自炊したりしないのか。極端な話し、鍋で米炊いて、塩や味噌で食ってでも生きて行けるのに」と思い、日本飯盒協会の立場から、直火炊きの面でなにかアドバイスめいた事が出来ないか、と考えたからだ。考えたのではあるが、そんな生活の知恵程度でどうにかなる生易しいもんじゃないという事に気がついて、やめた。努力してる人は努力してるし、努力どころでない人だって多くのだ。
 仮に飯盒と米があったって、煮炊きする場所や装備がなければ出来ない。そもそも住む所がない人には、自炊さえ無理なのだ。わずかに手に入った小銭で、コンビニやスーパーでパンだのおにぎりだのカップ麺を買って凌ぐ、それさえ出来なかったら廃棄食品を探す、そうするしか出来ない。自分の親達が経験した以上の、凄まじい環境なのである。
 どこかの国の哲学者が20年ほど前、日本のホームレスを見て、「この国に置ける完全な自由とは、野良犬のそれである」と宣ったそうであるが、そんな人たちに自炊がどうのといったアドバイスなど、まったく意味をなさない。倹約や節約が意味をなせるレベルまで、その人たちの暮らしぶりを回復していく事こそ必要であり、それは知恵ではなく政策なのだ。